高取藩徳川家に代々仕えた古参の家臣が治める

高取藩

植村家の家紋「植村割桔梗」

記事カテゴリ
藩史
藩名
高取藩(1640年〜1871年)
所属
奈良県
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高取藩は、奈良県高市郡高取町一帯を治めた藩です。関ヶ原の戦いで功績を治めた本多俊政が開藩し、寛永17年(1640年)より旗本の植村家が2万5千石の大名に取り立てられて幕末まで藩を治めました。

植村家は徳川家康の祖父の代から松平(徳川)家に仕えてきた古参中の古参です。しかし、巡り合わせが悪く徳川秀忠の時代まで大名にすらなれず、冷遇されてきた歴史があります。
そんな植村家が治めた高取藩の歴史を紐解いていきましょう。

巡り合わせが悪すぎた古参の家臣

植村家は、家康の祖父、松平清康の代から松平家に仕えた古参の家臣です。松平清康は慈悲深い君主として知られ、家臣団との絆も深かったと記録に残っています。嫡子、松平広忠(徳川家康の父)にも祖父同様に家臣団との強固な絆を築いており、その心根は徳川家康が受け継いだ、といった伝説も残されています。

しかし、植村家は松平清康、松平宏忠が暗殺された現場に二度とも居合わせていたことにより、「縁起が悪い家臣」として敬遠されてしまいます。植村家は近侍の立場だったそうなので主君の信頼を得ていたはずですが、巡り合わせが悪かったために冷遇されるようになったのです。それでも、植村家は徳川家康にも仕えます。しかし、ここでも巡り合わせが悪いことに徳川家康の長男、松平信康の家臣団に組み込まれてしまいました。松平信康が武田氏との内通を疑われて自害すると家臣団は三河を追放となり、植村家も諸国をさすらうことになったのです。

その後、植村家は榊原康政の取りなしにより三河へ帰参が叶いますが、当主の死に居合わせ続けたという理由で、わずか500石を与えられただけでした。古参の家臣が数万石を与えられて大名になって行く中、屈辱を感じたこともあったでしょう。それでも、植村家は出奔も裏切りもせず、徳川家に仕え続けます。

植村家の苦労がようやく報われたのは、徳川秀忠・家光の時代です。大阪の陣で軍功を立て、徳川家光の時代に江戸城や江戸市中の警備にあたる大番12組を束ねる大番頭へと出世します。そして、寛永17年(1640年)大番頭であった植村家政が2万5000石の増加を受けて旗本から大名に取り立てられ高取藩を与えられたのです。松平清康の代から数えて5代目、やっと功績が認められました。
それ以後、植村家は明治維新まで14代にわたって高取藩を治めました。

幕府の信頼も篤かった高取藩

植村家が高取藩を治めるようになってから、大和にある幕府の直轄地の管理をたびたび任されるようになります。これは、大名家の醜聞(騒動)の結果ですが、植村家が幕府から信頼されていることがわかる出来事です。
しかし、8代目藩主植村家利が遊女と受水して自殺してしまい、急遽兄である植村家長が9代目藩主の座に就くといった大醜聞も犯しています。なお、植村家長は長年若年寄を務め、72歳で老中格になるなど幕府の中枢でも活躍しました。

幕末、13代目藩主植村家保の時代、天誅組の変が発生すると討伐の軍に加わるなど幕府よりの姿勢をみせますが、戊辰戦争の際は新政府軍に与して京都の警備などを務めました、
最後の藩主植村家壷は明治維新後子爵に任ぜられ、その嫡子植村家治は貴族院廃止まで議員を務めました。

高取藩まとめ

高取藩を江戸時代の初めから治めた植村家は、徳川古参の家臣でありながら巡り合わせが悪すぎて、長年冷遇されてきました。しかし、3代目将軍徳川家光の時代からようやく功績が正当に評価され、以後高取藩主として、幕府の重臣として江戸幕府を幕末まで支え続けます。

なお、高取家は現在も存続しており湘南乃風のメンバーの1人、「SHOCK EYEさん」もその1人です。SHOCK EYEさんの本名は植村家浩といい、植村家の家系図にも名前が載っています。彼はとても強運の持ち主で「歩くパワースポット」という別名があるそうです。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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