壬生藩将軍の宿泊場所でもあった

壬生藩

鳥居家の家紋「鳥居笹」

記事カテゴリ
藩史
藩名
壬生藩(1602年〜1871年)
所属
栃木県
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壬生城

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壬生藩は栃木県下都賀郡壬生町にあり、壬生城を藩庁とした藩です。壬生藩は日根野吉明が開藩し、しばらく治める家がめまぐるしく変わった後、江戸時代半ばより幕末まで鳥居家が治めました。
壬生藩は、江戸時代初期まで日光東照宮に参拝する将軍の宿泊所としての役割も担っていました。そんな壬生藩の歴史を紐解いていきましょう。

壬生藩の開藩と壬生道の整備

壬生藩は、室町時代より壬生の地を治めた壬生氏が亡びた後、結城秀康に続いてこの地を拝領した日根野吉明が1万9000石で開藩した藩です。日根野吉明は、中世の城郭であった壬生城を近代的な城郭に改築したと伝えられていますが、城は天守閣も櫓もない簡素な造りでした。

日根野吉明が壬生藩を開いたのと同じ頃、元和2年(1616年)~翌3年にかけて現在の日光東照宮が造営されます。それに伴い、江戸から日光にいたる街道、日光道中とその途中で枝分かれする壬生道が整備されました。壬生道は後に庶民の東照宮参拝道としても利用されますが、整備された当初は将軍の社参路や資材の輸送路として使用されていました。

壬生道はその名の通り壬生藩を通る道です。4代将軍徳川綱吉までは復路に壬生道を利用し、壬生城で宿泊するのが慣例となっていました。そのため、壬生城は御殿が大変豪華な造りとなっていて、ミニチュアで復元された壬生城は城というより豪華な館のように見えます。
なお、日野吉明は豊後国府内藩に2万石で加増転封になります。

将軍の側近達が次々と城主になる

日野吉明が移転になった後、壬生藩は阿部家・三浦家・松平(大河内家)・加藤家とめまぐるしく治める家が変わります。代替わりが行われたのは三浦家と加藤家のみで、そのほかの家は1代限りの治世でした。

ちなみに、2代目藩主阿部忠秋、3代目藩主の三浦正次は、3代将軍徳川家光の側近集団「6人衆」の一員です。三浦家が3代にわたって壬生藩を治めた後に6代目藩主となった松平輝貞は、4代目将軍徳川綱吉の小姓を務めていました。将軍が定期的に宿泊する藩として壬生藩が重要視されていたことがよく分かる人事です。ちなみに、壬生藩の藩主を務めた後は、幕閣に入り重臣となった人物も珍しくありません。江戸時代中期まで、壬生藩は幕閣級の大名の封地として認知されていました。

なお、7代目藩主として加藤明英が壬生の地に入った時代、「七色掛物反対越訴」という新税に反対した越訴が起こったと伝えられています。この越訴の顛末は幕末の頃には壬生各地に「伝承」として伝えられていたという記録が残っており、明治期には全国の一揆をまとめた『東洋民権百家伝』にも顛末がまとめられています。しかし、藩の公式な記録には越訴があったことや、免除された税の内容などは残っていません。史実か、伝承か今でも意見が割れている事件です。ただ、加藤家は2代目の家督相続が認められたもののすぐに移転が命じられて、壬生藩を去っています。

鳥居家の時代

正徳2年(1712年)、鳥居忠英が新たな藩主として壬生藩に赴任します。鳥居家は、三河武士の鑑と讃えられた鳥居元忠を輩出した家です。慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いの前哨戦と言われている「伏見城の戦い」で彼は伏見城に籠城して石田三成と戦い、壮絶な討死を遂げました。後年、伏見城に残された血痕付きの床板は、京都の複数の寺院の天井となり「血天井」として信仰の対象にもなっています。

鳥居忠英は、壬生に移封された後に鳥居元忠を祀る「精忠神社」を建立し、敷地内に元忠の血痕が付着した畳を埋めて「畳塚」を築きました。なお、神社も畳塚も現存しています。
鳥居家は忠英より8代、明治維新を迎えるまで壬生藩を治めました。

なお、鳥居忠英は壬生藩主として務めながら老中まで出世し、その後の藩主達も若年寄など幕閣に入り、江戸幕府を支える要職に就いています。
その一方で、壬生藩は農地の荒廃などによる年貢の減少で藩政が悪化し、借財は一時期9000両にも上りました。

7代目藩主鳥居忠宝の時代、ペリー来航によって尊皇攘夷運動が盛んになる中、壬生藩は保守派と尊皇攘夷派に割れ、ついに江戸家老・国家老の両方を自殺に追い込む事態にまで発展します。その後、藩の主導を握ったのは尊皇攘夷派でした。
しかし、水戸藩の尊皇攘夷派が「天狗党の乱」を起こすと、壬生藩は乱の鎮圧に尽力して幕府から賞賛されます。

戊辰戦争が始まり大政奉還の間まで、7代藩主鳥居忠宝は京都で壬生藩の立場を守る為に奔走します。その一方で藩領では世直し一揆が多発し、その鎮圧にも藩兵を動かしました。
明治維新後、最後の藩主8代目鳥居忠文は一時藩知事になりましたが廃藩置県の後は藩知事を辞職し、曽於後倉使節団に同行してアメリカに留学、のちに外交官となります。

壬生藩まとめ

壬生藩は小さな藩で内情も豊かではありませんでした。しかし、日光道中、さらに壬生道という重要な街道と関わりがあった藩なので幕閣に入るような将軍家と近しい大名家が藩主を務めています。なお、7代目藩主鳥居忠宝が率いた壬生藩の藩士達は戊辰戦争の宇都宮の戦いなどにも参加しています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。