八戸藩盛岡藩より独立した

八戸藩

南部家の家紋「南部鶴」

記事カテゴリ
藩史
藩名
八戸藩(1665年〜1871年)
所属
青森県
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八戸藩は、南部盛岡藩2代藩主・南部重直が後継を定めずに没したために誕生した藩です。幕府の命令によって、南部盛岡藩10万石の中から2万石を分割してもらい、南部重直の弟中里数馬(南部直房)が初代藩主となりました。そんな八戸藩の歴史を紐解いていきましょう。

南部盛岡藩より独立して誕生

盛岡を中心とした陸奥国は、三戸南部氏が開藩した盛岡藩によって治められていました。しかし、2代目藩主である南部重直が後継を定めず病没したことによって誕生した藩です。

南部重直は死の直前、4代目将軍徳川家綱に後継者の選定と南部家の存続を事前に願いでます。この願いを受けて家綱は10万石の所領のうち、8万石を重直の弟・七戸重信に相続させます。そして、残り2万石を同じく弟の中里直好に相続させ、八戸藩を立ち上げました。

中里直好は南部盛岡藩初代藩主南部利直とその側室・仙寿院の子として誕生し、八戸藩誕生と共に、名を南部直房と改めます。彼は南部利直の7男にあたり通常ならば藩主の地位など望めない立場でしたが、兄が後継を定めずになくなったため藩主となりました。

彼は八戸城を築城して城下町の整備などに力を尽しますが、41歳の若さで病死します。このとき、盛岡藩による毒殺説が流れ、幕府が調査に入ったという記録が残っています。

幕末までの歴史

八戸藩の藩士は飢饉との戦いの歴史でもあります。2代藩主南部直政の時代から不作による飢饉によって藩の財政は圧迫されていました。

4代藩主南部広信の時代には33回も飢饉が発生しています。ちなみに、幕末まで八戸藩は9人の藩主によって治められましたが、飢饉を経験したことのない藩主は幕末の8~9代目藩主のみです。八戸藩の藩主の中には文武に優れて教養人も多かったのですが、心身共に負担が大きかったのが30代、40代で亡くなる藩主が多かったのです。

最後の藩主である南部信順は、薩摩藩主・島津重豪の十四男という南部氏とはなんの縁のゆかりもない人物です。しかし、薩摩藩と深い繋がりがあったために戊辰戦争の際は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けるなど危機に落ちいりましたが、うまく立ち回って戦闘に参加することなく明治を迎えました。

八戸藩まとめ

八戸藩は江戸時代初期に南部盛岡藩から独立した小藩でした。後継がいなかったために分割、独立というあまり例のない開藩の仕方をしたせいか、初代藩主・二代目藩主の死には毒殺の噂も流れています。
その後、幕末まで9名の藩主が誕生しましたが、ほぼ全ての藩主が飢饉に悩まされました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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