高田藩親藩・譜代大名の移封が多い
家の家紋「」
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高田藩は、越後国(新潟県上越市付近)にあった藩です。石高が高い越前福井藩と共に加賀前田藩に挟まれており、北陸や東北地方にかけて日本海側に位置する外様大名の監視役として、藩ができた当時は幕府に重要視された藩でした。しかし、初代藩主の堀家、その後高田藩を任された徳川家康の六男、松平忠輝の改易によって印象が悪くなり、江戸時代中期以降は親藩や譜代大名の左遷先のような位置づけでした。そんな高田藩の歴史を紐解いていきましょう。
堀家・松平忠輝の相次ぐ改易
越後国は戦国時代以降、蒲生氏や上杉氏によって治められた後文禄の役や伏見城の築城工事などで功績があった堀秀治に与えられます。そのときの石高は30万石でした。堀秀治は立ち回りがうまく、豊臣秀吉の死後に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に味方して領地を安堵されます。しかし、彼は31歳の若さで亡くなってしまいました。堀忠俊という嫡男がいましたが彼はまだ11歳と幼少だったため、藩の実権を握ろうと、家老の堀直清とその異母弟堀直寄による争いが勃発しました。(越後福嶋騒動)
この騒動はやがて徳川家康の判断を仰ぐほど激化し、結果的に堀家は改易となりました。
堀家が改易になった跡、高田の地を与えられたのは松平忠輝です。彼は徳川家康の六男であり、東北の覇者伊達政宗の娘を娶っていました。舅に当たる伊達政宗は彼に目をかけ、高田城を建築する際には工事の総責任者を務めています。
しかし、松平忠輝は慶長20年(1615年)に勃発した大坂夏の陣に参戦する予定でしたが約束の刻限に遅刻したうえ、大阪への行軍中に徳川秀忠直属の旗本2名を斬殺する事件を起こしました。それにくわえて、大坂夏の陣の戦勝報告を徳川家康と共に朝廷へ奏上する役目だったにもかかわらず、桂川で船遊びをしていたせいで参加できなかったという失態をします。その結果、父である徳川家康の死後、2代目将軍となった徳川秀忠によって松平忠輝は改易のうえ伊勢朝熊に配流になります。なお、松平忠輝はその後信濃国諏訪の諏訪頼水に預けられ、諏訪高島城で92歳という長寿を全うしました。
この改易により、高田城の築城は一時期ストップし、櫓などが再び建てられ始めたのは10年近く後のことです。
越後騒動
松平忠輝が改易された後、高田藩は一時的に徳川四天王筆頭であった酒井忠次の嫡男、酒井家次が入藩し、嫡男酒井忠勝と共に治世を行いましたが、酒井忠勝は信濃松代藩に移封されます。その後、高田藩を治めたのは徳川家康の次男、結城秀康の次男にあたる松平忠昌から始まる越前松平家です。越前松平家の統治時代、ようやく高田城には櫓などが築かれて築城が終りました。
初代藩主松平忠昌には、松平忠直という兄がいましたが彼は素行不良を理由に改易されたため、急遽北ノ庄50万石を継ぎ、高田藩は忠直の嫡男松平光長が継ぎます。つまり、叔父と甥の立場が入れ替わる形でした。
松平光長が藩主であったとき、高田藩は大地震に見舞われて天守閣の代わりであった櫓が倒壊、100名以上の死者を出します。
光長はそのとき江戸にいましたがすぐに高田藩に入り、復興に尽力しました。そして、復興作業と並行して家老を中心に産業振興、新田開発、魚沼銀山の開発などに力を入れた結果、26万石という表側の石高に対して実際の石高が40万石に近くなります。
松平光長は名君といっても過言ではありませんが、後継に恵まれず嫡男が子どもを残さぬまま早世しました。
そのため、筆頭家老小栗正矩を中心として急遽後継の選定が行われ、最終的に当時15歳であった松平綱国が後継と定められます。しかし、藩内では小栗正矩が自分の嫡男、小栗大六を後継にしようと画策しているという噂が広まり、ついに松平光長に家臣800人以上が小栗正矩を隠居させよという意見書を提出します。これにより、小栗正矩は筆頭家老の地位を解かれて隠居となりますが、騒動は収まることなく光長はついに幕府大老酒井忠清に裁定を訴えました。酒井忠清は話し合いによる解決を命じますが、それで騒動が収まるはずが無く、最終的に5代将軍徳川綱吉の裁定により越前松平家は改易されました。
この騒動は越前騒動と呼ばれ、松平光長は徳川家の血筋でありながら罪が赦されたあとも合力米3万俵の俸禄で隠居となります。
この騒動以降、高田藩は親藩や譜代大名の左遷先のような立ち位置になりました。
左遷されてきた大名達
越前松平家が改易になった後、高田藩は4年ほど幕府の直轄地となりましたが、やがて以下にご紹介するような大名達がいわゆる左遷扱いで移封されてきます。
- 稲葉正往:徳川綱吉の将軍就任を反対した大老酒井忠清派の1人であったため、徳川綱吉によって京都所司代の任を解かれて移封を命じられる
- 戸田忠真:戸田氏が幕僚から遠ざかったことで江戸から近い佐倉藩から移封
- 松平定重:藩士の野村増右衛門という人物をささいな失態で斬首したうえ、一族にも重罰を科したので、徳川綱吉の不興を買い桑名藩より移封
- 榊原政純:姫路城の城主であった叔父が8代将軍徳川吉宗の倹約令を無視して吉原で豪遊するなどしたため、不興を買い姫路藩を継ぐと同時に移封。なお、高田藩に移ってからは善政を敷いた。
まるで現在の懲罰人事のような事例です。しかし、左遷された大名の中には後に幕府の要職に返り咲いたり、高田藩の中で善政を敷いたりする大名達もいました。
戊辰戦争と高田藩
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発した頃、高田藩は榊原正純から数えて6代目にあたる榊原政敬が藩主を務めていました。榊原政敬は、幕府軍か明治政府軍のどちらに付くか態度を曖昧にしていましたが、開戦すると明治政府に恭順して藩中に駐屯していた幕府軍を追放します。そのため、藩主の考えに従えない藩士200名あまりが脱藩し、最終的に彰義隊に合流しました。戊辰戦争は明治政府の勝利で終りましたが、高田藩は降伏した会津藩士を多数預かっています。
藩主の榊原政敬は藩知事になった後、子爵に任じられて昭和2年(1927年)まで存命しました。
まとめ
高田藩は改易される大名が続いたため、江戸時代半ばから政治闘争に敗れた大名達の左遷場所のような扱いでした。そのため、藩主達は越前松平氏や榊原正純など一部の藩主以外熱心に藩政に取り組んだ印象は薄いです。100以上存在した藩の中でこのような扱いを受けた藩も珍しく、移封を命じられた大名達の心中が偲ばれます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。