川越藩大老・老中などを輩出した有力大名が治める

川越藩

酒井家の家紋「丸に剣片喰」

記事カテゴリ
藩史
藩名
川越藩(1590年〜1871年)
所属
埼玉県
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川越城

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川越藩は、現在の埼玉県川越市にあった武蔵国一の大藩でした。豊臣秀吉によって徳川家康が関東に移封になった際、重臣の酒井重忠を川越城の藩主に据えて川越藩を開かせました。江戸時代を通して、大老や老中を務めた家が治めた江戸幕府にとっても重要な藩です。そんな川越藩の歴史を紐解いていきましょう。

川越藩を江戸幕府が重要視した理由

川越の地は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県、神奈川県横浜市などを含めた国)の中央に位置し、古来より軍事上の重要拠点となっていました。川越城も鎌倉公方の足利氏を抑えるために関東管領の上杉氏が太田道灌に命じて建てさせたものです。

江戸時代になると新河岸川の舟運が発展し、木材や年貢米をはじめさまざまな物品が川越をから江戸へ運ばれました。川越がもし敵の手に落ちた場合、江戸には物資が届かなくなり都市機能を維持できなくなります。また、陸路も江戸の日本橋から川越を結ぶ川越街道が整備され、人や物資が行き来しました。川越街道は中山道にもつながっており、五街道に準じる往還に指定されていたと記録が残っています。現在、川越は「小江戸」と呼ばれていますが、その名称は江戸時代からあり、江戸のように発展してにぎわっていた都市であったことがわかります。

このような交通の要所だったため江戸時代を通して、江戸幕府は川越藩を重要視し、初代藩主酒井重忠をはじめ、明治まで川越藩を治めた8家はいずれも親藩です。また、藩の成立から明治まで21人の藩主がいましたが、そのうち8名が大老・大老格・老中など幕府の要職についています。この数は佐倉藩に続く数です。

幕府の要職を務めた川越藩の藩主たち

川越藩の初代藩主酒井重忠は、幼いころから徳川家康に仕えて姉川の戦いなど数多くの合戦を主君と共に生き延びた生え抜きの忠臣です。川越藩を与えられた後も大坂の陣で江戸城の留守居、兵糧輸送の責任者を務めるなど、徳川家康の重臣として数々の働きをしました。なお、酒井重忠の弟にあたる酒井忠利やその子供酒井忠勝も川越藩主を務めています。酒井忠勝は、老中を罷免された後重要な決議の日のみ登場するように命じられるようになりました。これが大老の始まりといわれています。

酒井家が移封になった後、藩主の座に就いた堀田正盛は春日局の義理の孫にあたり、3代将軍徳川家光の側近として、老中格から老中へと破格の出世を遂げました。家光が亡くなったときに殉死した人物としても知られています。

堀田正盛の後に藩主となったのは、大河内松平家の松平信綱です。彼は家光の小姓として幼少時から側仕えをして、成長してからも側近として重用され老中に出世しています。家光亡き後は4代将軍家綱の側近も務めました。

大河内松平家は、松平信綱から3代にわたって川越藩を治めますが老中に命じられたのは信綱のみです。
五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保も川越藩主を務めています。彼もまた老中を務め、500石から最終的に15万石以上の大大名へと出世しました。

柳沢吉保が甲斐に移封になった後に藩主となった秋元家は最後の藩主となる秋元凉朝のみ老中にまで出世します。しかし、政敵田沼奥次との争いに敗れて老中を辞任、左遷といってもよい移封で山形藩に移ります。

このとき、川越藩は一時期前橋藩に吸収された廃藩となりました。しかし、前橋藩主であった松平朝矩が居城を川越城に移したことで川越藩は復活し、反対に前橋藩が廃藩になります。これは、前橋藩が利根川の水害を受けやすい場所にあり、最終的には居城であった前橋城まで利根川の水害が及ぶようになったためです。

松平朝矩は31歳の若さで死去しますが、前橋松平家はその後約100年、7代にわたって川越藩を治めました。前橋松平家で4代目に藩主となった松平斉典は名君として有名で、藩政改革を行って財政再建と飢饉対策などを行います。これらは一定の成果を上げ、前橋松平家の財政はいくらか回復したと言います。また、現存する川越城の本丸御殿を立て直したのも松平斉典です。幕府の要職には付きませんでしたが、川越の治世に全力を尽くした稀有な大名でもあります。

前橋松平家最後の藩主であった松平直克は、前橋藩を立て直して復活させ前橋藩に移封、同時に14代将軍徳川家茂と共に朝廷との折衝に臨みますが、やがてほかの幕閣と対立して幕政を退き、以後幕政に復帰することはありませんでした。

実質最後の藩主となった松井松平家の松平康英は、外国奉行と神奈川奉行を経て棚倉藩主を相続したのと同時に老中になります。川越藩の藩主になったのは3年後のことです。この時期、幕府は大変な混乱の中にあり、松平康英は何度も老中に任命されたり罷免されたりしながら、幕府を支えていましたが明治元年、明治政府より謹慎を命じられます。その間、彼は川越城の堀を埋め立てて明治政府に恭順の意を示し、川越城を戦火から守りました。

川越藩まとめ

川越藩の藩主を務めていた大名の多くは幕府の要職についており、川越の治世を自分でおこなった者は僅かでした。歴代の藩主の中には堀田正義や柳沢吉保など時代劇や小説でおなじみの人物もいます。川越の地は交通の要所となっていただけでなく、サツマイモの名産地としても知られており、現在もサツマイモを使ったお菓子が有名です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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