尾張藩(1/2)江戸時代を通して尾張を治めた尾張徳川家

尾張藩

松平家の家紋「三つ葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
尾張藩(1610年〜1871年)
所属
愛知県
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尾張藩は、徳川義直を祖とした尾張徳川家が治めた藩です。尾張徳川家は将軍家に後継ぎが絶えた際に後継者を出す御三家の筆頭家でした。また、将軍家との関わりも深く、将軍と親密になったり反発したりした藩主もいます。ここでは、尾張藩の歴史を歴代の藩主を軸にひもといて行きましょう。

徳川義直が名古屋城に移り住んだ時から、尾張藩の歴史は始まりました。諸大名の多くが「国替」といって定期的に領地変更を命じられる中、尾張徳川家は江戸時代を通して尾張藩から動かず、この地を治めました。初代藩主徳川義直の頃、尾張藩の石高は47万1300石でしたが、その後美濃国各務群などをはじめとする木曽川流域の地域、木曽地域・飛騨地域など領地を拡大していきます。最終的に、尾張藩は木曽川・飛騨川流域、長良川・揖斐川(いびがわ)流域といった東海地方の軍事・経済の要所を藩領に取り込みました。その結果、石高は61万9500石となります。同じ御三家の紀州藩が55万石、水戸藩が35万石ですから、御三家筆頭と呼ばれた尾張徳川家の経済力がよく分かります。なお、一説によると尾張藩は新田開発によって得られた米を売却した収入に加え、木曽山中で採れる材木を売却した収入などもあり、実際の石高は90万〜100万石に近かったと伝えられています。

経済的な豊かさで安定した治世を敷く

表石高と実際の石高に30万石近い差があった尾張藩は、経済的に比較的余裕がありました。そのため、領民の年貢は4公6民と低く抑えられたと伝えられています。領民が余裕のある暮らしができていたためか、尾張藩は廃藩になるまで一揆が一度も起こりませんでした。また、勝海舟は明治31年(1898年)に著した氷川清話の中で、尾張藩のことを『民政が行き届いた国』『織田信長の遺徳が未だ人民に慕われている国』『善良法政が歴々と残っている』と褒め称えています。
初代藩主徳川義直は尾張藩藩主の座に着いたときはまだ幼少でありましたが、成人してからは、用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めました。
2代藩主となった徳川光友は社寺政策に力を入れすぎたせいで藩の財政を悪化させますが、防火制度を調えたり軍備増強をしたりするなど、一定の功績を残しました。

将軍家と尾張藩の関わり

尾張藩の藩主である尾張徳川家は、御三家の一つで最も格が高い家とされています。御三家とは、徳川家康の血を継ぐ男系男子を始祖とする親藩の最高位です。将軍家に後継ぎが絶えたときは、御三家から養子を迎えるのが定めでした。尾張徳川家は3代藩主の徳川綱誠の実母が3代将軍徳川家光の長女、千代姫であることから、将軍家に最も近い家とみなされていました。4代藩主徳川吉通は実父徳川綱誠の急死により、11才で藩主となりましたが、その人格と治世に関する能力の高さを6代将軍徳川家宣により高く評価されます。
家宣は、実子鍋松(後の七代将軍、徳川家継)が病弱であることを心配し、徳川吉通に7代将軍になるように懇願したと伝わっています。
しかし、この願いは実現しませんでした。吉通が「尾張は将軍位を争わず」と述べたからとも、家宣に変わって国政を担っていた御側御用の新井白石が反対したからともいわれていますが、真相は定かではありません。
徳川吉通は、6代将軍家宣が薨去して僅か1年後の正徳3年(1713年)に不審な死を遂げます。実母、本寿院と夕食を共にした後、急に吐血してそのまま死亡したのです。享年25才(満23才)という若さでした。この死に関して、尾張藩士朝日重章は自身の日記、「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」の中で、紀州藩の間者が尾張藩邸のことを伺っているという噂があったことを記しています。
吉通の後継は、幼い長男徳川五郎太が数え年3才で継ぎますが、彼も父の死から二か月後、になくなりました。

八代将軍を巡る紀州徳川家との争い

5代藩主徳川五郎太が幼くしてなくなったことで、6代藩主の座についたのは吉通の弟に当たる徳川継友です。継友は本来なら藩主になれる立場でなかったため、藩主の座についたときは徳川五郎太の死の翌日にも関わらず盛大に藩主就任祝いの祝宴を開き、家臣達かたしなめられた、という話しも伝わっています。
徳川継友は、八代将軍の座を紀州徳川家の徳川吉宗と争った人物として有名です。小説・ドラマ・漫画などでもよく取り上げられるエピ-ソードのため、ご存じの方も多いことでしょう。尾張徳川家の方が紀州徳川家よりも家格が上であり、血筋でも徳川継友の方が将軍家に近かったのに将軍に就任できなかった理由は、諸説あります。中でも、尾張徳川家の附家老である成瀬正幸と竹腰正武などが4代藩主徳川吉通の宣言、「尾張は将軍位を争わず」を守って積極的な将軍就任活動をしてこなかったため、という説は有名です。このほか、幕府の重鎮であった真鍋詮房や新井白石の反対もありました。
かくして、徳川継友は将軍になることなく享保15年(1731年)に死去するまで、藩主を務めます。継友は幼少より蓄財に熱心で、節約家だったと伝えられています。そのため、質素倹約を推し進める政治を行い、領民からの評判は「性質短慮でけち」といまひとつでした。継友が領民に付けられたあだ名の中には、官職の「尾張大納言」と「尾張大根」をかけた、
『切り干し大根』というのもあったそうですが、史実では継友は大納言には任命されていません。しかし、彼が行った政策により、尾張藩は享保13年(1729年)には、金1万3千両以上、米2万7千石以上という黒字を出しています。また、徳川継友は商業の発展にも熱心であり、彼が藩主の座に着いているとき、江戸の豪商三井家の越後屋が名古屋に再び出展をしています。名古屋城下の人口も17万人を超え、7代藩主徳川宗春が躍進する土台を築きました。

幕府との対立

歴代尾張藩藩主の中で、最も有名なのが7代藩主徳川宗春です。宗春は徳川継友の弟にあたり、4代藩主徳川吉通が大変かわいがられてもいました。徳川宗春は、幕府の命にことごとく逆らい、正反対の政策を行った藩主と伝えられています。彼の治世については「ゆめのあと」や「享元絵巻」などに記録として残されています。享元絵巻は名古屋市博物館に所蔵されているので、名古屋城を見学ついでに鑑賞してみるのもおすすめです。

徳川宗治は、8代将軍徳川吉宗が出した倹約令を無視し、名古屋の城下町に芝居小屋を誘致し、領内に新しい遊郭の設置許可を出しました。このため、江戸で活動できなくなった役者や絵師など、町人文化を担っていた者たちが名古屋に集まり、名古屋は江戸を凌ぐ賑やかとなりました。その様子を描いたのが、先に紹介した享元絵巻です。
徳川宗春自身も派手好きで目立ちたがり屋の一面があったようで、領内では能や歌舞伎の装束で歩き回ったり、白い牛に乗ったりしたという逸話が残っています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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