今治藩今治タオル生産の基礎を築いた
松平家の家紋「六曜」
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今治藩は今治城を藩庁に愛媛県今治市一帯を治めていた藩です。今治といえば「今治タオル」が有名ですが、今治は江戸時代より木綿の栽培が盛んでした。今治藩を治めた久松松平氏は藩の産業として木綿栽培を推奨し、それが今治の繊維産業の基礎を築いたのです。そんな今治藩の歴史を紐解いていきましょう。
藤堂家の支配時代
江戸幕府が起こり、最初に今治を治めたのは藤堂高虎です。築城の名人として知られており、外様でありながら徳川家康の信も篤かった彼は、関ヶ原の戦いの戦功として今治12万石を拝領しました。藤堂高虎は日本三大水(海)城の1つ、今治城を築城して今治支配の基礎を固めましたが、慶長14年(1609年)、藤堂高虎は伊勢国津城に移封されました。しかし、今治2万石は藤堂家支配の飛び地として残され、今治城は藤堂高虎の養子である藤堂高吉が入城しました。高吉は、丹羽長秀の三男に当たります。
藤堂高虎の養子に入った後は一門の筆頭として大阪の陣でも活躍しました。しかし、養父の藤堂高虎が亡くなると高虎の実子である藤堂高次が彼を危険視し、高吉は養父の葬儀にも出席できなかったと伝えられています。そして、寛永12年(1635年)に松平定房と入れ替わるような形で伊勢長島に国替えになり、その地で亡くなりました。なお、子孫は現在も残っています。
久松松平家の統治
藤堂高吉と入れ替わるように今治の藩主になった松平定房は、徳川家康の異母弟である松平定勝の五男です。松平定房が今治藩主になった後は、以後明治維新まで久松松平家が藩を治めました。江戸時代初期から明治維新まで国替えのない藩は珍しいものでした。
代々の藩主は特に目立った功績を残していませんが、藩の特産品として塩と木綿の育成に力を注ぎました。今治流れる蒼社川が運んだ肥沃な土地が綿花栽培に適していたのです。
そのため、藩の財政は比較的余裕があったため、幕末に近づくと藩主達は文治政治に力をそそぎました。最後の藩主松平定法は、薩長に味方して譜代大名でありながら戊辰戦争は新政府軍の一員として御所を警備しています。
今治と綿花栽培
綿花が日本に伝わったのは、平安時代の頃だと伝わっています。綿花は寒さに弱いことを除けば栽培しやすい植物で、主に西日本で栽培が盛んでした。蒼社川が運んだ肥沃な土壌が綿花栽培に適しているとわかり、今治で綿花栽培が盛んになったのは17世紀頃と言われています。今治で栽培された綿花は伊予木綿と呼ばれ、大阪や京都などで人気でした。
この時代、綿を綿布にしたのは今治の女性達です。商人は摘み取った収穫された綿花を女性達に渡し布を織ってもらいます。女性達は織った布の半分を賃金として受け取れました。
そのため、今治藩の税収の一部は綿布によって賄われていたのです。江戸時代、財政難に喘いでいた多くの藩が現金収入を得られる産業の起ち上げを試みています。今治藩は幸運にも、藩が成立した頃から「綿布」という産業があったのです。
また、隣の伊予松山藩が塩田開発に力を入れて産業化すると、今治藩は塩を運ぶ港を整備して海運の町として賑わいました。船が出入りする立派な港があれば船大工なども集まって町が発展していきます。なお、今治藩も2代目藩主松平定時が塩田開発を推奨し、塩も名産となっています。
今治藩は綿と塩(海運)に支えられて幕末まで大きな一揆などもなく、幕末に天災が多発したことを除けば平穏でした。7代藩主の松平定剛は藩校克明館を建てて、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及を推奨しています。
明治になると伊予木綿は他の地域で作られた安価な木綿に市場を奪われ、徐々に衰退していきます。しかし、今治出身の矢野七三郎という人物が布地の片方だけ毛羽だたせた「綿ネル」の製造方法を和歌山で習得し、今治の地で改良したうえで普及させます。これが「伊予ネル」と呼ばれて体操評判となり、今治ではふたたび繊維産業が盛んになりました。その後、明治43年(1910年)に綿ネル生産業者の阿部平助が「タオル」の製造に乗り出し、今治はタオルの名産地となりました。
今治藩まとめ
今治藩は天災にこそ他の藩同様悩まされましたが、江戸時代の初期から綿栽培が盛んで塩田開発ができた恵まれた藩でもありました。現在も続く今治タオルを作ったのは明治の実業家達ですが、その基礎である綿花栽培を推奨してきたのは久松松平家の歴代の城主達です。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。