松代藩真田家が250年にわたって統治した
真田家の家紋「真田六文銭」
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松代藩は、信濃国北部の川中島4郡を治めた藩です。松代城を藩庁にすえ、江戸時代初期から明治維新まで6文銭の家紋で有名な真田家が当主を務めました。そんな松代藩の歴史を紐解いていきましょう。
真田家統治前の松代藩
松代藩は、川中島4郡を治めていたため別名『川中島藩』とも呼ばれていました。なお、資料によっては松代藩と川中島藩を同一のものと扱ったり、別の藩として扱ったりと差があります。しかし、元和8年(1622年)に真田信之が10万石で松代藩に入城すると、以来「松代藩」という呼び名で定着します。
真田家が移封される前までは、森家・松平〔長沢〕家・松平〔越前〕家などが治めました。しかしいずれも一代限りで藩を出ています。
真田家が移封された後の松代藩
真田家は、東信濃の古くからの豪族・滋野氏の流れを汲む海野氏の分流にあたる一族です。上田市真田町地域を本拠地にした土豪の一族でした。真田氏が歴史の表舞台に躍り出たのは、真田昌幸の頃です。彼は、武田信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡のきっかけに自律し、織田家・豊臣家・徳川家に仕えながら勢力を強めていきました。特に、徳川郡を2度に渡って撃退した「上田合戦」は有名です。
しかし、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、真田昌幸と次男真田信繁(幸村)が西軍につき、長男真田信之が東軍に味方します。東軍の勝利により、昌幸と信繁は九度山に配流となり、昌幸はそこで没します。真田信繁は大阪冬の陣で豊臣軍に味方して、「真田丸」という出城を作り奮戦したことでも有名です。
真田信繁は大阪の陣で戦死しましたが、兄に当たる真田信之は東軍に味方したことで領地を安堵され、一度は上田城の城主となりましたが元和8年(1622年)に松代に移封となり、松代10万石、上州沼田3万石を与えられました。これは、信州にある藩の中で最大の石高です。以来、松代藩は真田家によって治められてきました。
真田信之はこの時代にしては珍しく93才まで長生きした人物です。信之は次男の信政に譲って隠居しますが、信政が存命の内に亡くなってしまいます。これにより真田家には大規模なお家騒動が起こり、幕府や縁戚の大名を巻き込んで大事になります。結局、真田信之の長男、真田信吉の子ども真田信利が沼田の土地を与えられて沼田藩として独立、真田信政の嫡男、真田幸道が後継となり、真田家は存続していきました。
なお、松代藩は他の藩同様に江戸時代初期より普請の負担などから財政難に陥ります。
この問題は、5代目藩主真田信安の時代に、田村騒動と呼ばれる騒動に発展します。
真田信安の時代、田村半右衛門という人物を登用して藩政改革に取り組みますが結局うまくいかず、最終的に田村藩右衛門の処罰にまでエスカレートしました。
跡を継いだ真田幸弘の時代、松代藩は藩主の生活費にも事欠くほど逼迫します。そのため、幸弘は政府とは異なる徳治の命令系統を構築して、質素倹約に努めます。
なお、その後松代城や松代藩には飢饉や天災が相次ぎました。
そのため最後の藩主となる真田幸民まで、幕府から借財をしながらもなんとか持ちこたえましたが、特に目立った功績は立てられませんでした。
なお、真田幸民の子どもである真田幸民は、松代城跡の公園化に力を尽しています。
まとめ
松代藩は真田信繁の兄真田信之を祖とする真田藩によって治められました。
真田家は真田昌幸が当主だったの時代、徳川家とは友好な関係を築いていましたが、後に当主と次男が反旗を翻し、長男だけは従うという異様に自体になります。松代の地を与えられた真田家は目立った功績こそなく、財政難で苦しみましたが藩を250年間は治め、明治維新以降は松代城址の整備に力を尽しました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。