田辺城の戦い(2/2)教養は身を助く?細川幽斎の才覚

田辺城の戦い

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
田辺城の戦い(1600年)
場所
京都府
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田辺城

田辺城

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田辺城で幽斎が討ち死にすると古今伝授は失われてしまう…!後陽成天皇も智仁親王もさぞかし焦ったことでしょう。7月27日、幽斎に使者を送って西軍と和睦・開城を勧めます。ところが幽斎はこれを拒絶し、7月29日付で古今伝授の箱と相伝証明状を親王宛に送るとともに、『源氏抄』を献上しました。また、この時朝廷に対し『二十一代和歌集』も進上しています。その際に詠まれた歌が、幽斎の代表作として知られる「古へ(いにしへ)も今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉」です。

この歌の解釈については諸説ありますが、そのまま訳すと「昔も今も変わらない世の中に、和歌は人の心の中のさまざまな思い(心の種)を残す素晴らしいものです」。一説によれば、古今伝授により和歌の道を残しておきたいので古今伝授の箱をお送りいたします、どうか後々までお伝えください、という意味を含んでいると言われています。

そして幽斎は断固として籠城を続けることを宣言。こうした幽斎の動きに対し、親王や天皇は何としても幽斎を救わねば、と和睦のために動き始めます。このあたり、信長の死後うまく立ち回り豊臣秀吉・徳川家康と権力の主流とともにあり続けた幽斎の知略が見えます。ここで朝廷が「古今伝授の資料を得たからもういい」と幽斎を見捨てたらアウトでしょう。幽斎は自らの価値を踏まえ、巧みなパフォーマンスで天皇家を動かしたのです。

天皇は三条西実条中院通勝、烏丸光広を「勅使」として田辺城に派遣します(※諸説あり)。そして西軍に対し「もし幽斎がここで死んでしまえば古今伝授は永遠に途絶えてしまう。城の囲みをとくように」と勅命を出して講和を命じます。こうして西軍は城の囲みをとかざるを得ませんでした。さらに勅使は城に入って幽斎に降伏するよう説得します。この時、西軍の前田茂勝も使者として参加しました。

田辺城の戦い⑤ただでは負けない!幽斎の策略

度重なる天皇の要請により、細川幽斎は降伏・開城を決意します。が、ただ降伏するのではなく、ここで西軍に条件を付けました。田辺城を明け渡した後、城を軍事利用しないように誓約させるとともに、自分は西軍に拘束されるのではなく、前田茂勝に個人的に預けられ、茂勝の丹波亀山城(京都府亀岡市)に移動するというものでした。こうして9月13日に田辺城は開城(※諸説あり)します。

さて、9月13日といえば徳川家康ら東軍本隊が岐阜城に到着した日。その後、東軍・西軍共に決戦の地・関ヶ原に布陣し、9月15日午前中には関ヶ原の戦いが始まり、およそ6時間で決着を迎えています。この戦いに田辺城を包囲していた西軍1万5000人は間に合いませんでした。田辺城に西軍の勢力を釘付けにした幽斎は、結果として東軍の勝利に貢献したことになります。

ちなみに息子の細川忠興は、関ヶ原の合戦で2000の兵を率い、黒田長政とともに石田三成隊と戦って首級を挙げる活躍を見せています。

田辺城の戦い後の細川氏

関ヶ原の戦いの後、細川忠興は田辺城を落とされた復讐とばかりに、家康に亀山城と福知山城を攻める許可を得た上で進軍。愛妻家だった忠興はガラシャが自害させられた怒りを西軍残党にぶつけていたのでしょうか。

とはいえ、亀山城の前田茂勝については客人扱いされていた細川幽斎のとりなしもあり、攻め滅ぼしませんでした。茂勝は積極的に西軍に参加したわけではないこと、田辺城開城の際の働きなどが評価され、後に丹波亀山5万石を安堵されています。

さて、忠興と幽斎ですが、実はこの時点で関係が悪化しています。忠興は勅命とはいえ田辺城を明け渡したことに怒りを感じていたようです。もう少し耐えれば関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、田辺城も西軍方に落ちることがなかったのですから、幽斎に怒りを感じたのかもしれません。幽斎も2ヶ月頑張ったんですけどね…。

一方、忠興は福知山城に撤退していた小野木重勝については徹底的に攻めました。このとき先鋒を務めたのは亀山城からつき従った茂勝でした。福知山城の戦いは約2ヶ月続き、結局他の武将による仲裁で小野木重勝の出家を条件に城は開城。ところが忠興は重勝を許せず捕まえて最終的に切腹させた(※異説あり)そうです。

その後、忠興は徳川家康による関ヶ原の戦いの論功行賞により、丹後国11万石・豊後杵築(大分県杵築市)5万石の16万石から、豊前(福岡・大分県)33.9万石を加増されて39.9万石の大名に出世。小倉藩の初代藩主になりました。一方幽斎は京に残り、文化人として悠々自適な生活を送りました。なお、八条宮智仁親王に対しては古今伝授の残りを実施しています。そして慶長15年(1610年)8月20日、京都の自邸で77年の生涯を閉じるのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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