田辺城の戦い(1/2)教養は身を助く?細川幽斎の才覚

田辺城の戦い

田辺城の戦い

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事件簿
事件名
田辺城の戦い(1600年)
場所
京都府
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田辺城

田辺城

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慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として丹後田辺城(京都府舞鶴市)で戦いが起こりました。「田辺城の戦い」と呼ばれるこの戦いでは西軍1万5000に対し、東軍方の細川幽斎(細川藤孝)が500名と共に籠城。細川方に圧倒的不利な戦いでしたが、当代一の文化人として知られた幽斎の才覚が天皇を動かし、西軍には敗れたものの幽斎は無事に脱出。1万5000の兵を田辺城に留めたことは関ヶ原での本戦に大きな影響を与えました。今回はそんな田辺城の戦いについて分かりやすく解説します。

関ヶ原の戦いとは?

田辺城の戦いの説明に入る前に、関ヶ原の戦いについて簡単に解説しておきます。織田信長の次に政権の担い手となった豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に没した後、跡を継いだのは6歳の豊臣秀頼。このため実際の政権の運営は豊臣家の家臣と有力大名たちの合議制で、「五大老・五奉行」によりおこなわれていました。

このうち重要な政務を決定する「五大老」は徳川家康、毛利輝元、前田利家(利家の死後は息子の利長)、宇喜多秀家、上杉景勝の5名。一方で実務を担当する「五奉行」は石田三成、浅野長政、長束正家、前田玄以、増田長盛の5名で、行政、司法、財政、宗教、土木をそれぞれ担当していました。

豊臣政権では加藤清正や福島正則といった軍事関係を担当する武断派と、石田三成をはじめとした政務を担当する文治派が対立していましたが、それをうまく利用したのが五大老の筆頭・徳川家康で、禁止されていた大名同士の結婚を勝手におこない、武断派と次々と縁戚関係になり勢力を増していきます。それに対抗していたのが石田三成。両派閥の仲裁役を担っていた前田利家が没した後、家康が実権を握ってからは両派閥の対立はさらに激化していきます。

さらに家康は秀吉の遺言に逆らい、大阪の西の丸に勝手に転居。独断で大名に加増や転封をおこないはじめます。さらに会津120万石の上杉景勝に謀反の疑いをかけて上杉征伐(会津征伐)を実施します。

一方の三成はといえば、家康を倒して豊臣氏の政権を守ろうと挙兵。家康と対立する五大老の毛利輝元を旗印に反家康連合を組んで西軍を組織し、7月19日に大坂城から出陣して伏見城を攻撃します(伏見城の戦い)。さらに美濃国(岐阜県)・伊勢国(三重県)に侵攻しました。

これを受けた家康は上杉征伐から取って返し、江戸城にしばらくとどまった後に西に向かいます。そして9月15日に東軍と西軍は関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で激突。6時間の戦いの結果、東軍が勝利するのです。

田辺城の戦い①キーパーソン・細川幽斎とは?

関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる田辺城の戦いが起こったのは慶長5年7月19日から9月13日まででした。田辺城を守るのは細川幽斎。足利義輝・義昭の両将軍に仕えた後、織田信長のもとで丹後11万石の大名として活躍。明智光秀の盟友としても知られており、嫡男・忠興は光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚しています。

そんな幽斎ですが本能寺の変の後は光秀に味方せず、玉を幽閉し、光秀からの使者も追い返し、信長を弔うためとして剃髪・出家した上で田辺城に隠居しています。このとき息子の忠興に家督を譲るとともに「幽斎」という雅号を名乗りました。この対応が功を奏し、本能寺の変後も処罰されることなく豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍方につくという、時代の流れにうまく乗り続けました。

また、幽斎は当代一の文化人としても知られており、和歌や連歌、茶道、蹴鞠を極め、能楽や囲碁についても造詣が深かったようです。しかも剣聖・塚原卜伝に剣を習い、弓術は日置流の印可に加え、弓術・馬術・礼法を組み合わせた「武田流」の印可も得ている、文武両道の人物でした。

なかでも注目したいのが、三条西家に大体伝わる古今伝授(「古今和歌集」の解釈などを秘伝として口伝で伝えたもの)を三条西公枝から受けていたこと。本来なら三条西家内で引き継ぐべきものですが、公枝の息子がまだ幼かったことから「絶対に他人に伝えず、三条西家が断絶した場合は責任をもって伝え返す」ことを条件に伝授されています。これが田辺城の戦いで大きく響くことになります。

田辺城の戦い②東軍についた細川氏

細川幽斎の隠居後、後を継いだ細川忠興は豊臣秀吉の傘下で小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍しています。そんな忠興に訪れたピンチが、文禄4年(1595年)に起きた豊臣秀次の切腹事件。秀次は秀吉の後を継いで天正19年(1591)に関白に就任していましたが、突然謀反の疑いがかけられたのです。しかもその後秀次は高野山で出家した後切腹し、側室や子供たちは連座により斬首されています。
実は忠興は秀次に黄金200枚の借金をしており、さらに娘を秀次に仕えていた前野景定に嫁がせていました。このため、切腹事件に際し秀吉やその意をくんだ石田三成から疑われるはめに。

その時忠興を助けてうまくとりなしたのが徳川家康で、金子を用立てたのも家康だと言われています。このため忠興は家康と親交を深めていくとともに、三成と対立していくことになります。慶長4年(1599)閏3月、前田利家が没したことで起きた石田三成襲撃事件にも忠興は参加しています。こうした背景もあり、細川氏は家康の上杉討伐に参加し、関ヶ原の戦いの際もいち早く家康の東軍方についたのです。

このとき幽斎は宮津城(京都府宮津城)におり、妻の玉は大阪にいました。三成の勢力範囲内に父と妻がいたわけですから、忠興がどうするのかは豊臣恩顧の大名たちから注視されており、忠興が家康についたことは他の大名に影響を与えたと言われています。

ちなみに妻の玉はこの時壮絶な最期を遂げています。三成の挙兵前夜、玉は大阪の細川屋敷にいましたが三成が人質にとろうと攻めてきたことで、自ら命を放棄することを決意しました。キリスト教に改宗し「ガラシャ」の洗礼名を持っていた玉は、キリスト教により自殺を禁じられていたため、家老の小笠原秀清の介錯により死亡。秀清は屋敷に火をかけて自害しています。

田辺城の戦い③籠城戦の開始

反徳川家康を掲げて挙兵した石田三成は、まずは近畿にいる家康方についた武将たちを討伐するため城攻めをおこないます。そのひとつが細川幽斎の守る田辺城で、西軍方についた福知山城主・小野木重次や五奉行の前田玄以の息子で亀岡城主の前田茂勝をはじめとした1万5000の兵が城を包囲しました。一方の幽斎は7月17日まで宮津城にいましたが、三刀谷孝和が三成の手先となって130名を引き連れて城下町の屋敷に入ったことを知らされると、即座に宮津城を焼き払って舟で田辺城に戻り、武具や弾薬を田辺城に集めて籠城の準備を進めます。

そうこうしているうちに三刀谷孝和が田辺城に合流。実は孝和は亡き父の「家康に従え」との遺言や幽斎との関係を重視し、三成でなく幽斎につくことを決めていたのです!こうして孝和が加わり、幽斎は息子の細川幸隆・甥の三淵光行ら500名とともに田辺城に籠城します。この500人のなかには寺関係者や農民や町民なども混じっていました。さらに幽斎の正室・沼田麝香も具足をつけて夫と共に戦ったと伝わっており、細川一族・領民で総力戦に臨んでいたようです。

そして7月19日、いよいよ西軍が田辺城へと攻撃を開始。同じタイミングで伏見城の戦いが行われています。東軍の本軍は江戸で、このとき細川忠興は宇都宮付近にいました。田辺城への援軍は見込めません。

ところが西軍はなかなか田辺城を攻め切れませんでした。理由としては、文化人だった幽斎のもとで学んだ武将たちが西軍におり、師匠を攻めることに消極的だったからと言われています。銃撃戦が繰り広げられましたが、一説によれば弾を込めずに空砲を鳴らし、攻撃している体をとった武将もいたようです。

田辺城の戦い④「古今伝授」を守るために天皇が勅命!

そうこうしているなか、朝廷が細川幽斎を助けようと動きだします。幽斎の死により古今伝授が断絶することを恐れたためです。実は関ヶ原の戦いの前の慶長5年(1600年)3月から、幽斎は弟子の一人であり、後陽成天皇の兄弟にあたる八条宮智仁親王に対して古今伝授の継承をスタートさせていました。ところが関ヶ原の戦いの直前、5月29日に戦を準備するためという名目で、古今伝授を途中でストップさせて丹後(舞鶴市)に帰国してしまったのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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