赤穂事件(2/2)『忠臣蔵』の元になった赤穂四十七士の仇討ち事件

赤穂事件

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
赤穂事件(1701年〜1703年)
場所
東京都・兵庫県
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江戸城

江戸城

この急進派を止め続けたのが大石内蔵助ら上方漸進派でした。その理由は浅野大学による浅野家再興の可能性があったから。幕府は大学を「閉門」処分、つまり門や窓をふさいで外出を禁じはしたものの、旗本の身分はそのままにしていました。このため閉門がとければお家再興の可能性があったのです。

転機が訪れたのは元禄15年(1702年)7月18日。浅野大学は本家の広島藩浅野家預かりになり、事実上お家再興は不可能になりました。ここで内蔵助は討ち入り積極派に転身。本心では討ち入りに賛同していたものの、家を守る可能性を最後まで探し続けていたのでしょうか。

その後、内蔵助は仇討ちに賛成したものから取った神文(誓約書)を「仇討ちをやめる」といって本人に返し、抵抗したものを討ち入りのメンバーにする「神文返し」を実施。強い志のあるものを選別した結果、120人余りいたメンバーは50人余りまで減少。さらに討ち入りの三日前までに3人が姿を消し、同志は47名となりました。

事件から1年以上もたち、生活資金も底をつき始める中、赤穂浪士達には一刻の猶予もありませんでした。討ち入り日を早く決めなければ…そんななか12月14日に吉良上野介が茶会を開くとの情報が入ります。茶会のために確実に家にいる日、それが仇討の日に決まりました。

赤穂事件⑥吉良邸へいざ討ち入り!

元禄15年12月14日、いよいよ討ち入りです。午前3、4時頃に拠点を出発した一行は2つの部隊に分かれて吉良邸に討ち入ります。ちなみに現在の暦上はすでに12月15日ですが、当時は日の出で日付が変わるためまだ14日です。

大石内蔵助率いる表門部隊と内蔵助の息子・大石主税(良金)率いる裏門部隊が一斉に吉良邸に攻め入ります。吉良邸には討ち入りを恐れて100名程度の家来が警戒していた(無警戒だったという説も)ものの、浪士たちは「火事だ」と叫んで現場を混乱させる陽動作戦を展開。家来のいる長屋を閉鎖して戦力を低下させ、宿敵・吉良上野介の姿を探します。

寝室の布団がまだ温かかったことから付近にいる。そう考えて浪士たちが邸宅内を探し回った結果、台所の裏の部屋に潜んでいた白小袖の老人を発見。間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬りかかり絶命させました。この老人こそ吉良上野介本人でした。こうして討ち入りは約2~3時間ほどで終結。四十七士たちは仇討ちを無事に終えたのでした。

討ち入りを終えた浪士たちは午後6時ころに浅野内匠頭の墓がある泉岳寺まで移動。主君の墓前に吉良の首を備えて仇討ちを報告します。首は後に泉岳寺経由で吉良家に戻されています。

なお、四十七人は全員が泉岳寺に向かったわけではありません。吉田忠左衛門と富森助右衛門は途中で一行を離れて幕府の大目付に仇討ちの報告をしにいきました。また、寺坂吉右衛門もいつのまにか姿が消えていました。いなくなった理由は定かではなく、広島浅野本家に報告に行くという密命を受けていたとも、討ち入り直前に逃げたとも言われています。

赤穂事件⑦討ち入り後の浪士たちはどうなる?

大目付から討ち入りの連絡をうけた幕府は、処分が決定するまで浪士を熊本藩細川家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家の四大名家に分けて預けました。大名家により志士たちの待遇はかなり異なり、大石内蔵助ら17人が預けられた細川家は志士たちをもてなし、助命嘆願までしています。一方他の3家は罪人として扱ったため、江戸の庶民からは非難されたようです。

その後、幕府は赤穂浪士たちの扱いを慎重に検討していました。江戸市民たちは仇討ちを歓迎し、武士たちからも称賛の声があがるなか、無罪にすべきか、忠義と法律違反は厳密に区別して対処すべきか…。

2ヶ月余りの審議の結果、徳川綱吉は浪士たちの処罰を決定。法で決まった処分内容に対して計画的に軍事行動を起こしたわけですから、「文治主義」の綱吉としては法律違反で処罰するべきと考えたようです。

結局幕府は「主人の仇討ちをするのだと申し立てて徒党を組んで吉良邸に押し込み、吉良上野介を討ったことは幕府を恐れない非常に不届き千万なこと」として、赤穂浪士らに切腹を申しつけました。そして2月4日、浪士達はそれぞれが預けられていた大名屋敷で切腹。遺体は主君と同じ泉岳寺に埋葬されました。

赤穂事件のその後

赤穂事件でとばっちりをくらったのが吉良上野介の跡を継いだ吉良左兵衛。討ち入りの際に奮戦して重傷を負ったにもかかわらず、後に幕府からは「仕方不届」、つまり討ち入りの際の対応が駄目だったというよくわからない理由で領地を没収され、信州高島藩主の諏訪忠虎にお預けとされました。

そして諏訪高島城に幽閉されたあげく、宝永3年(1706年)に21歳の若さで亡くなっています。世論に押された幕府が「喧嘩両成敗」対応をいまさらして、スケープゴートとして左兵衛を祀り上げたということなのでしょうか、あまりにも不憫です。

一方、浅野大学はといえば宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、翌年9月には安房国(千葉県南部)に2郡500石の所領を与えられて旗本に復帰。こうして赤穂浅野家はお家再興を果たしたのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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