摺上原の戦い(2/2)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし奥州の覇者に
摺上原の戦い
一方の佐竹氏は家臣が謀反を起こしており本国がごたごたしている状態でした。さらに背後には伊達政宗と同盟のある北条氏が控えているわけですから、本格的に伊達氏を攻めると挟み撃ちにあう可能性が…。このため佐竹義宣が同行しないまま、蘆名義広は6月4日に黒川城に戻りました。
一方伊達政宗はというと、相馬から急いで引き上げて本宮城を経由し猪苗代城に急行。実はこのとき暴風雨が吹き荒れていましたが、チャンスを逃さないとばかりに止める部下を振り切り必死に猪苗代城に向かい、6月4日に城に入りました。加えて、米沢城から別動隊を米沢街道沿いに進ませ、北から黒川城を攻める作戦も展開しています。
摺上原の戦い③蘆名氏1万6000対伊達氏2万3000
6月5日、蘆名軍は摺上原の高森山に着陣します。総勢1万6000で、先鋒は猪苗代盛胤と富田将監(隆実)、二陣は「蘆名の執権」とも呼ばれる重臣で佐竹派の金上盛備や佐瀬河内守。三陣以降で後ろに控えていたのは佐竹氏、石川氏、二階堂氏の援軍に富田将監の父・富田氏実や平田周防守でした。ざっくり見ると後継者争いの時の佐竹派が前方、伊達派が後方という布陣です。
実は伊達政宗は猪苗代盛国以外にも調略を仕掛けており、摺上原の戦い前後に佐瀬河内守や富田氏実は「戦に参加することなく傍観する」と誓っていたのだとか(※戦の最中傍観説や戦後降伏説など諸説あり)。そもそも伊達派に属していた武将たちは戦に消極的でした。加えて他武将から派遣されてきた兵士たちもおり、蘆名軍は軍内部の統制が取りにくい。一枚岩とは言い難い状況でした。
一方の伊達軍は総勢2万3000。先鋒は蘆名氏を裏切った猪苗代盛国が務め、二陣・三陣が片倉景綱と伊達成実の伊達の双璧コンビ、四陣は鬼庭綱元や白石宗実など、第五陣が伊達政宗率いる本隊でした。こちらは妥当蘆名氏に燃える一軍で結束力もばっちりです。ちなみにこちらの布陣、両陣営とも諸説ありです。
両陣営とも魚鱗の陣を展開し、摺上原を挟んで対峙します。そして伊達軍先方の猪苗代盛国が富田将監を攻撃。いよいよ摺上原の戦いが始まります。
摺上原の戦い④蘆名氏を破って勝利
伊達軍有利に見えた摺上原の戦いでしたが、序盤は西から東に向かって吹く強風が起こした砂塵の影響で、伊達軍は視界が遮られて苦戦。しかも富田将監の猛攻はかなりのもので、次々と伊達軍を破っていきます。ここで蘆名軍が総力戦で伊達軍を圧倒すればよいのですが、蘆名軍の後方にいた武将たちは傍観します。
そうこうしているうちに風向きが逆になり、伊達軍は追い風を受けて有利に。伊達成実と白石宗実の2隊が磐梯山麓を迂回して蘆名義広の本陣を側面攻撃したため、「伊達軍の援軍が来た!」と蘆名軍の陣形は乱れて崩れます。さらに蘆名軍の前方では後方が動かないこともあり「裏切りが発生したのでは」との憶測も。
そのうち傍観していた勢力が撤退したり降伏したりと独断で行動し始めて蘆名軍は瓦解し、伊達軍の勝利が決まります。とはいえ、富田将監や金上盛備のように最後まで諦めず戦って討ち死にした人物もいましたが…。蘆名軍は日橋川を渡って黒川城に撤退しようとしますが、猪苗代盛国が事前に橋を落としておいたことでなかなか渡れず多くの溺死者を出してしまいました。
蘆名義広は30騎程度に守られつつも何とか黒川城に帰りつきますが、蘆名氏の重臣たちに「すぐに佐竹氏に帰らないと首を取る」と脅されたことなどから佐竹方の白河城に脱出。その後実家の常陸国へと逃亡します。
こうして摺上原の戦いは伊達氏の勝利に終わりました。政宗は6月11日に黒川城に無血入場。多くの蘆名方の家臣が伊達氏に下ることになりました。これにより政宗はわずか23歳にして奥羽地方の半分を占める114万石の支配者にまでのし上がったのでした。
「摺上原の戦い」と豊臣秀吉
伊達氏の勝利で決着がついた摺上原の戦いでしたが、負けた蘆名氏は黙っていませんでした。摺上原の戦いは豊臣秀吉が出した「惣無事令」に反するものだと主張したのです。これに対し秀吉は天正18年(1590年)7月から8月に「奥州仕置」を実施して奥州の領土を分配した際、伊達政宗の会津4郡などを没収して72万石に減封。しかし、会津は蘆名氏ではなく蒲生氏郷に与えられてしまうのでした。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。