天正地震(2/2)秀吉が家康討伐をあきらめた大災害

天正地震

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事件簿
事件名
天正地震(1586年)
場所
岐阜県・富山県・愛知県・三重県
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大垣城

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桑名城

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長浜城

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関係する人物

地震発生当時、一豊は長浜城(滋賀県長浜市)の城主を務めていましたが、地震の日には京都におり、長浜城は妻の千代と一人娘の与祢が暮らしていました。地震の震源地に近かった長浜は液状化現象が発生し、大きな被害を受けます。当時の宣教師などの記録によれば、城下町は倒壊し、火事が発生して家々の半分は焼失。長浜城もほぼ全壊してしまいました。

山内家と言えば、千代は何とか無事でしたが、与祢は地震で倒壊した棟木の下敷きになって死亡。まだ6歳でした。幼い娘を失った山内夫婦の悲しみは深く、2人は禅宗に帰依していくことになります。

天正地震の大被害③内ヶ島氏の滅亡

天正地震により、丸ごと滅びてしまった一族もあります。それが奥飛騨・白川郷の内ヶ島(内ヶ嶋)氏です。当時の当主は5代目の内ヶ島氏理で、白川村の帰雲城の城主でした。

内ヶ島氏理はもともと織田信長配下の佐々成政に従っており、富山の役の際には成政に援軍を出しています。ところが成政はさっさと秀吉に降伏してしまったので氏理はピンチに。また、氏理が成政を助けるために越中に行っているすきに、秀吉の命を受けた金森長近が内ヶ島領内に進攻し、領国のほとんどを手中に収めるとともに帰雲城を奪ってしまうという事件も発生。困った氏理は長近を通じて秀吉方に降伏を告げました。そして和平交渉の結果、氏理の命は守られ、家名と所領の安堵が決まりました。

ずいぶん甘い処分に見えますが、これは秀吉が内ヶ島氏の保有する鉱山を重視したからだと言われています。内ヶ島氏の領内には横谷銀山や天生金山、三谷・三尾河銅山など鉱山がたくさんあり、高い鉱山技術を有する内ヶ島氏は豊臣政権にとって重要な存在だったのです。このため氏理は飛騨一国を治めることになった長近の部下として活躍する…はずでした。

運命の11月29日。この日は所領安堵を祝い、能を鑑賞する祝宴が開催される日の前日でした。イベントには内ヶ島の一族に加え、領民も参加する計画。能楽師や猿楽師も集まり、翌日を楽しみに眠る帰雲城と城下町の人々を天正地震が襲いました。

地震により城の背後にそびえたつ帰雲山の山腹が一気に崩れ、発生した土石流は雲城と城下町を飲みこみました。人々は土砂に埋まり、内ヶ島氏一族と領民は全滅。城下町にあった300あまりの家々はすべて10mほど下に埋もれ、城下町は荒れ地と化したのです。また、当時の文献によれば山のすぐそばにあった大川がせき止められたことで洪水が発生したとのこと。こうして内ヶ島氏はわずか一晩で滅亡し、歴史から姿を消したのでした。

天正地震後の秀吉と家康

天正地震で大きな被害を受けた豊臣秀吉は、徳川家康への対応をがらりと変えました。これまでのように武力で滅ぼすのはなく、懐柔して臣下にしようと考えたのです。そこに仲介役として現れたのが織田信雄。戦争を防ぐために両者の間を調整し、停戦協定を設立させました。

加えて秀吉は家康対策として、妹の朝日姫を家康に嫁がせることを決意。政略結婚のために朝日姫を夫の武将と強制的に別れさせ、5月に家康の正妻として嫁がせたのです。さらに9月には母・大政所を人質として家康に送っており、家康の上洛を強く促しました。こうした取り組みの結果、家康は同年10月27日、大坂城で秀吉に謁見して臣従を誓っています。

そして伏見地震へ

天正地震の爪痕も薄くなり、豊臣秀吉の天下統一により日本も落ち着いてきました。ところがそんななか、もう一つの大地震が秀吉を襲います。それが文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)の深夜に発生し、伏見城の天守閣を倒壊させた「伏見地震」です。

伏見地震は京都を中心とした畿内が震源の直下型地震で、マグニチュードは7.5前後と推察されています。京にある沢山の神社仏閣が損壊しており、方広寺で秀吉が建造中の「京の大仏」はなんと倒壊。大阪や堺、神戸では液状化現象が起き、家の倒壊などの被害があったようです。この地震では1000人以上が亡くなっており、5000人規模の使者が出たとの説もあるほどで、余震も長く続きました。

当時秀吉がいた伏見城はといえば、天守閣や門は崩れ落ち、御殿や櫓なども被害にあいました。秀吉は秀頼を抱いて庭に飛び出して何とか助かり、台所で一夜を明かした後に木幡山に避難しました。

実は秀吉は伏見城を作っている最中に「伏見の普請なまつ大事にて候」、つまり伏見城の築城工事の際は「なまず」こと地震対策が重要との手紙を書いています。しかし、結局地震に勝つことはできず、伏見城は大きなダメージを受け、秀吉は被災生活を送るはめになったのです。

秀吉は被災した次の日から伏見城の再建にとりかかり、「さらに豪華なものとして再建せよ」と命じます。これは伏見城が当初の隠居所から明からの使節を迎える迎賓館的役割を持つ城へと変わっていたからです。とはいえ、伏見城の建設には金銭的な負担ばかりでなく民の負担もかなりのもの。さらに秀吉は震災後に2度目となる朝鮮出兵を強行しますが、こちらも消耗戦となり、武将たちの不満が高まります。こうした地震後の秀吉の失策は、後の豊臣政権の衰退へと繋がっていくことになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04