甲州征伐(2/2)信長・家康が武田氏を攻め滅ぼす

甲州征伐

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事件簿
事件名
甲州征伐(1582年)
場所
山梨県
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甲府城

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織田方に寝返った武将の一人が木曾義昌。武田信玄の時代から武田氏に仕えた武将で、正室は武田信玄の娘・真理姫。勝頼の義理の弟にあたります。

木曾義昌は天正10年(1582年)1月に織田方に離反。これを知った勝頼は大いに怒り、人質として預かっていた義昌の生母と側室、子どもたちを新府城で磔にして処刑しました。さらに従兄弟の武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣し、自らも軍勢1万とともに出陣し、諏方上原城(長野県茅野市)に入ります。

一方、織田信長も勝頼討伐を決意して軍を編成して出陣させます。こうして天正10年2月、武田氏が滅亡する「甲州征伐」が開始したのです。

甲州征伐②織田軍3万VS武田軍3000

甲州征伐は織田信長の後継者・織田信忠を総大将に、森長可、木曾義昌、河尻秀隆、毛利長秀、織田長益、滝川一益などが主軍として参加しました。総勢は約3万でした(※諸説あり)。さらにその後ろを織田信長と明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政などが率いる兵が続きます。その数は6万にも及んだそうです。

信忠と信長は伊那街道方面から新府城に侵攻。加えて金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から新府城をめざします。さらに北条氏政も甲州征伐に便乗して侵攻を開始しました。

一方、さまざまな方面から攻められ、離反者も出た武田軍は武田勝頼、信豊、信勝、信廉に穴山梅雪などの武田氏一門を中心とした約3000が甲州征伐に立ち向かいます。そう、このころはまだ3000いたんです…。

甲州征伐③次々と勝頼を見限る家臣たち

織田軍は2月3日に先発の森長可らが岐阜城を出陣し、木曽口と伊那街道から信濃国(長野県)に入ります。恐れをなした周辺地域の領主たちは次々と織田軍に下りました。さらに、2月14日に浅間山が噴火。もともと浅間山の噴火は異変や不吉なことが起こる前兆として恐れられており、武田氏の士気は下がり、織田軍に寝返る者がさらに増えました。

2月16日には鳥居峠で今福昌和率いる武田軍と、木曾義昌ら織田軍が激突。織田軍が勝利をおさめます。2月18日には織田信忠は飯田(長野県飯田市)まで侵攻。このとき飯田城主の保科正直は高遠城に逃亡し、それを知った勝頼の叔父・武田信廉も、戦の要的存在だった大島城(長野県下伊那郡)に火をかけて逃亡し、大島城は織田軍の手に落ちました。関係者が逃げる、または投降することにより、織田軍はほとんど戦うことなく南信濃を制圧してしまいました。

一方織田方の友軍はといえば、2月18日に徳川家康が浜松城から出陣し、20日には武田方の田中城(静岡県藤枝市)を攻略。2月21日には駿府城に進軍しました。また、調略の結果、勝頼の従兄弟で義兄でもある重臣・穴山梅雪(信君)を寝返らせることに成功しています。

重臣の梅雪がなぜ勝頼を裏切ったのかは諸説ありますが、勝頼が娘を梅雪の嫡男に嫁がせるという約束を破り、武田信豊の子に嫁がせたことが一因という話があります。この結婚話は信玄の遺言だったそうですから、梅雪が怒るのも無理はありません。

また、もともと勝頼とは不仲だったという説も。自分の息子を武田氏の跡継ぎにしたかったという考えがあったようで、裏切る際も自らの領土安堵を条件とすることに加え、「武田を継ぐのは穴山」という話を家康としていたそうです。

梅雪の裏切りは残る武田家臣団に大きな衝撃を与え、武田氏を見限る者が一気に増加。さらに北条氏も2月下旬には駿河東部を攻めて武田方の城を落としており、他方面から次々に攻められた武田氏はほぼ死に体でした。そんななか唯一武田氏を見捨てず踏ん張っていたのが高遠城(長野県伊那市)の仁科盛信です。

甲州征伐④高遠城の戦い

高遠城を守る仁科盛信は武田信玄の五男で勝頼の異母兄弟にあたります。約3000人の兵と共に高遠城に立てこもる盛信達を、織田信忠率いる織田軍は約3万の兵で取り囲みました。

信忠は圧倒的な数の優位性を背景に、盛信に使者と黄金を送って降伏を促しますが、盛信はこれを拒否し、使者の耳を削ぎ落して追い払いました。3月2日、両軍は激突。盛信は織田軍の総攻撃に決死の奮闘を繰り広げますが、500名あまりの家臣と共に討ち死に(または自害)しました。

高遠城の落城を知った勝頼は3月3日、新府城を放棄。火を放って残る兵とともに、武田氏譜代家老の小山田信茂を頼って逃亡します。このとき残っていた兵はわずか700名でした。

実はこの前日、新府城では軍議が繰り広げられていました。軍議では次の動きとして(1)新府城に籠城して誇り高く討ち死にする(2)小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)に移動する(3)真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に移動するという3つの案が出されました。特に岩櫃城は上杉方の援軍も期待できます。

ところが、真田氏は武田氏のなかでも外様であるという理由で岩櫃城案は受け入れられず、小山田氏を頼って岩殿城に行くことが決まってしまったのです。小山田信茂は武田信玄の時代から武田氏に仕える重臣で、武田二十四将の一人。数々の軍功を立てており信用されていました。これが武田氏にとって最後のターニングポイントでした。

甲州征伐⑤天目山の戦いで武田氏滅亡

武田勝頼・信勝一行は残る約200人の家臣たちと岩殿城を目指して移動します。その後、鶴瀬(甲州市大和町)で一足先に出発していた小山田信茂の迎えを1週間ほど待ちますが、なかなか現れません。

『甲陽軍鑑』によれば3月9日、信茂は岩殿城までの道をいきなり封鎖。勝頼を招き入れるふりをして、勝頼に向かって鉄砲を放ちました。そう、小山田信茂は最後の最後で勝頼を裏切ったのです!自らの領地と領民を守る結果で本人は相当苦悩した結果だったようですが、この裏切りが駄目押しとなり、武田氏は滅亡することになります。

勝頼はその後、武田氏の祖先の墓がある天目山棲雲寺(現山梨県甲州市大和町)に向かいます。残された兵士たちはわずか40名でした。そのあとを滝川一益率いる織田軍が追いかけます。

3月11日、ついに天目山の山麓で織田軍に追いつかれた勝頼一行は最後まで徹底抗戦します。土屋昌恒と小宮山友晴は大奮戦の末討ち死に。これは勝頼たちが自刃する時間を稼ぐためでした。そして勝頼は午前11時ころ、嫡男の信勝、正室の北条夫人とともに自害。享年37歳でした。勝頼親子の京都に送られた後、六条河原でさらし首にあいました。それ以外の武田氏一族についても自刃したり、織田軍により処刑されたりしています。

こうして武田氏は滅亡。旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)は織田信長の部下たちにより分割統治されることになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。