甲州征伐(1/2)信長・家康が武田氏を攻め滅ぼす

甲州征伐

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事件簿
事件名
甲州征伐(1582年)
場所
山梨県
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甲府城

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天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長が徳川家康らとおこなったのが武田氏を攻める「甲州征伐」。跡継ぎ問題による内乱や、長篠の戦いに敗れたことで弱体化した武田氏を信長は見逃さず、大軍をもって攻め滅ぼしました。今回はそんな甲州征伐について、分かりやすくまとめて解説します。

武田信玄の跡継ぎ問題

元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は東三河から甲斐に引き返す途中で亡くなりました。その跡を継いだのが4男の武田勝頼でした。もともと勝頼は武田氏の跡継ぎではなく、母の諏訪御料人の一族である諏訪氏の跡継ぎとして育てられました。

ところが永禄8年(1565年)、信玄の嫡男の武田義信が謀反を疑われて廃嫡され、他の兄弟も出家したり亡くなったりしていたことから、勝頼は急遽跡継ぎに。これに反発したのが武田家臣団たちでした。家臣になるはずの人物が武田氏のトップになるわけですから、いい思いはしませんよね。

このため信玄は勝頼の息子・武田信勝を正式な跡取りとし、まだ幼い信勝が育つまでの後見人・中継ぎの当主として勝頼を指名しました。信玄の遺言状でも「勝頼は陣代(後見)」であると明記されています。

そんな状態で家督をついだ勝頼でしたが、家臣団との不和は続き、なかなか家中を掌握しきれません。そんな武田氏をまとめ、自らの力を誇示して従わせるために勝頼は周辺諸国に攻め込みます。東美濃(現在の岐阜県南部)の織田方の18の城を奪うなど活躍を見せていくのです。

「高天神城の戦い」で信玄を超えた?

武田勝頼の活躍として触れておくべきなのが天正2年(1574年)5月に徳川氏が治める遠江国・高天神城(静岡県掛川市)を攻めた「高天神城の戦い」です。もともと武田信玄と信長は友好関係にありました。勝頼の妻として信長の養女が嫁いでいることからもその関係が分かります。

ところが信長による比叡山延暦寺の焼き討ちや、足利義昭の信長包囲網などの結果、両者は徐々に対立。勝頼もその跡を継ぎ、織田領や徳川領に侵攻を繰り返します。その一つが高天神城でした。

高天神城は「高天神を制する者は遠江を制す」と言われる交通の要衝で、自然の地形を生かした難攻不落の要衝として知られていました。もともとは今川氏の城でしたが、桶狭間の戦いを機に徳川氏の城へ。実は武田信玄も元亀3年(1572年)の西上作戦の時に高天神城を攻めたものの一日にして撤退。このため高天神城を落とすのは父親を超えるということに繋がったのです!…と言いたいところですが、実は近年の研究では攻城戦はなかったという説が有力視されています。

さて、勝頼は2万5000の大軍で高天神城を攻めます。このとき高天神城の城主は小笠原信興で、1000人ほどの兵と詰めていました。圧倒的な戦力差に徳川家康は信長に援軍を要請しましたが、間に合わず高天神城は武田方の猛攻に屈して開城。この際、勝頼は高天神城の要望を受け入れ、開城の条件として兵士たちの命を保証するともに、武将達の身柄も拘束せず、武田方に下るも徳川方に残るも自由としました。この寛大な措置で勝頼の株はかなり上がる一方、徳川氏は援軍が間に合わなかったことから信頼関係がガタガタに。結果、武田方に多くの武将が下りました。

長篠の戦いの敗戦が滅亡への第一歩

当初は調子よく周囲を攻めていた武田勝頼。徳川氏の城を次々と落とし、天正2年(1574年)9月には浜松城下まで迫りました。武田氏の領土は過去最大まで広がり、このまま行けば徳川氏も滅ぼせる!?というところでしたが、天正3年(1575年)5月に起きた「長篠の戦い」で風向きががらりと変わります。

長篠の戦いは、武田氏を裏切って徳川氏についた奥平貞能・貞昌親子を討伐するため、勝頼が二人のいる長篠城を攻めた戦いです。武田氏の軍勢は1万5000(諸説あり)。これに対し、徳川家康は織田信長に援軍を要請します。今回援軍は間に合い、3万8000の織田・徳川連合軍が武田軍を破りました。

この戦いで武田軍は大きな被害を受けます。武田信玄の時代から仕える重臣で「武田四天王」と称される山県昌景、馬場信春、内藤昌秀が討ち死にしたほか、土屋昌続、真田信綱・昌輝親子などをはじめ1万人以上が死亡。勝頼は何とか高遠城(長野県伊那市高遠町)まで退却しました。

北条氏と対立、高天神城も落城

その後、武田勝頼は大きな打撃を受けた武田氏の立て直しに注力しますが、織田・徳川軍は武田氏の城を次々と攻め落とします。こうした動きにより高天神城が孤立。天正8年(1580年)10月には徳川軍が高天神城を取り囲んで兵糧攻めを開始します。

高天神城は勝頼に救援を求めますが、援軍は来ませんでした。理由としては勝頼が信長の出陣を恐れたとも、信長と融和を図っていたため影響を恐れたとも、北条氏と対立していたためそれどころではなかったとも言われています。

長篠の戦いの後、勝頼は上杉氏や北条氏との同盟を強化して武田氏を立て直そうとしました。天正3年(1575年)10月には上杉氏と和睦し、天正5年(1577年)に北条氏政の妹を後室に迎えています。こうしてそれぞれとの関係は強化したものの、上杉氏と北条氏の関係は悪く三国同盟には至りませんでした。

そうしているうちに天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が病死すると家督争い「御館の乱」が発生。北条氏政の弟の上杉景虎(北条三郎)VS謙信の甥・上杉景勝の争いでしたが、勝頼はこのとき立ち回りに失敗し、上杉とは和睦できたものの北条氏との関係が悪化し、信玄の頃から続いていた同盟は破たん。その後北条氏は徳川氏と同盟を結び、武田氏とは完全に敵対することになります。勝頼は敵を増やしてしまったのです。

高天神城に話を戻しましょう。勝頼からの援軍が期待できない中、高天神城を守る岡部元信は天正9年(1581年)1月、徳川方に助命嘆願の書状を送りました。が、家康から相談を受けた信長はこれを拒否。勝頼が援軍を出せば叩き潰すチャンスですし、援軍が出せないのであれば「勝頼は高天神城を見殺しにした」と、武田氏の威信を削ぐチャンスだと考えたのです。

高天神城はひどい飢えに苦しめられた結果、餓死者を多数出します。耐えきれなくなった元信達は天正9年3月、城兵700名超とともに城から打って出て激戦の挙句玉砕。城は落ちました。

甲州征伐①木曾義昌の離反

高天神城を見捨てたことで武田勝頼の威信は地に落ち、武田氏の重臣のなかから織田方に寝返る者が出てきました。しかも、勝頼は天正9年(1581年)から新たに新府城(山梨県韮崎市中田町)を築城。躑躅ヶ崎館の防衛力不足と武田領の統治のための本部移転だったのですが、新府城の築城と相次ぐ出兵により、勝頼は領民に対しかなりの年貢や賦役を内に課すことに。勝頼から人心が離れる大きな要因になりました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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