桜田門外の変(2/2)井伊直弼暗殺事件

桜田門外の変

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
桜田門外の変(1860年)
場所
東京都
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浪士たちは3月1日に事前打ち合わせを実施し、直弼の大名行列をどのように襲うかなどの計画を詰めました。指揮を執ったのは水戸藩の過激派・金子孫二郎ですが、襲撃には直接参加しておらず、実行犯のリーダーは関鉄之介でした。3月2日に品川に泊まった一行は3月3日の早朝に桜田門外に向けて出発。雪が降る中桜田門外を目指しました。最終的に襲撃に参加したのは18名で、このうち水戸藩の浪人が17名。薩摩藩からは有村次左衛門のみが参加しました。

一方の井伊直弼一行はといえば午前9時頃、江戸城に登城するため彦根藩の江戸上屋敷(東京都千代田区永田町)を出て江戸城に向かいました。大名行列は直弼の乗る駕籠を中心に、供廻り26名をはじめ約60名。上屋敷は現在の国会前庭・憲政記念館あたりで、事件現場となった外桜田門付近から約400m~500mの位置にありました。

直弼は自分が狙われていることは知っていたようですが、警備は増やしませんでした。これについては直弼自身が周囲から侮られると警備を増やすことを拒否したという説、暗殺計画を本気にしていなかったという説、死ぬことを覚悟していた説など諸説あります。そもそも過去に江戸城付近で大名行列が襲われたことはありませんでした。このため油断していたようで、駕籠を囲んだ彦根藩士達は雪対策として雨合羽を着込み、刀には雪を防ぐための柄袋をつけていました。この装備が浪士たちの襲撃に対処しきれなかった一因でした。

襲撃は駕籠に訴状を差し出す「駕籠訴」を装って始まりました。行列に前衛を務めた水戸浪士・森五六郎が近づき、護衛に切りかかるとともに一発の銃声が鳴り響きます。それを合図に浪士たちが彦根藩一行に襲いかかりました。銃弾は直弼の乗る籠に当たり、直弼は負傷。護衛達は抵抗するも乱闘の結果次々と倒されました。そして直弼の乗る駕籠に近づいた浪士たちは次々と駕籠に刀を突き刺します。その後、有村次左衛門が瀕死の直弼を駕籠から引きずりだして首を落としました。襲撃からわずか数分、享年44歳。大老まで上り詰めた政治家の悲惨な最期でした。

桜田門外の変④井伊直弼、死亡?

井伊直弼の首は有村次左衛門が意気軒高に持ち去ろうとしましたが、ここで立ち上がったのが彦根藩士の小河原秀之丞。最後の一太刀とばかりに次左衛門に切りかかります。秀之丞は残った水戸浪士達に切りつけられ、後に命を落としましたが、次左衛門も重傷を負いました。何とか進みますが近江三上藩(滋賀県野洲市)藩主の遠藤胤統邸の前で死亡。切腹しようとしましたがうまくいかずに力尽きました。直弼の首は遠藤家が預かりました。

現場に残された直弼の胴体は彦根藩の関係者が死傷者らとともに回収。直弼の首も回収しようと遠藤家に赴きますが、遠藤家はなんと5回も拒否しました。幕府の検視待ちを理由にしましたが、なんとここにきてまさかの意地悪!原因は不明ですが、小藩が25万石の井伊家をやっかんだのでしょうか…。

結局幕府も介入して首をもらい受けますが、この時の名目が「直弼の供回りの加田九郎太の首を返却してもらう」というもの。…あれ?首、直弼のだったよね…?と思いますが、実は彦根藩がお家断絶を免れるために仕組んだことでした。「直弼は負傷して療養中である」とすることで、藩主が暗殺されたという不祥事を隠し、決まっていなかった跡継ぎを決めて改易を免れようとしたのです。

幕府としても、大老が暗殺されたという政権を揺るがしかねない不測の事態を隠すとともに、激昂した彦根藩士たちが水戸藩を攻め、江戸市中で内乱が起きることを防ぐためにこれに協力。藩士たちの動きを抑えることを条件に、井伊家の後継者を決めて家督を相続する時間を稼ぐ余地を与えました。なんと翌日は見舞いの使者まで送っています。とはいえ、大名行列の見物者を中心に目撃者はばっちりいたわけですが…。

結局直弼が「死んだ」とされたのは1ヶ月後でした。さらに彦根藩は後に直弼の圧政を攻められ10万石を減封されています。また、桜田門外の変では直弼以外に8名の護衛が死亡しましたが、生き残った護衛達は後に切腹を申し付けられるなど、主君を守れなかった罰を受けています。

桜田門外の変⑤襲撃者たちはどうなった?

桜田門外の変で襲撃した18名はどうなったかというと、襲撃中に1名が亡くなり、そのほか重症を負ったため有村次左衛門をはじめとした数名が死亡・もしくは切腹。関鉄之介は薩摩藩を頼って西に逃げますが、島津久光は薩摩の全関所を閉鎖して助けを拒否しました。このため結局水戸藩士により捕まり斬首されています。18名のうち、最終的に逃げ延びて明治維新後まで生き残ったのはわずか2名でした。

実行犯ではないにしろ襲撃に関与した人々はといえば、首謀者の金子孫二郎は薩摩藩士の有村雄助らと京に向かうも薩摩藩兵により捕縛。孫二郎は江戸で斬首されます。雄助はといえば、誠忠組の大久保利通らからの必死の助命嘆願がありましたが、久光は自らの命に従わず暗殺に加担した雄助を許すことはありませんでした。結局薩摩に護送されたうえ切腹を命じられています。

桜田門外の変が与えた影響

襲撃者たちを捕まえて処罰し、彦根藩の仇討ちも阻止してなんとかことを納めた幕府は公武合体を推進。ところが2年後の文久2年(1862年)1月に老中・安藤信正が水戸浪士たちに狙われる「坂下門外の変」が発生し、幕府の権威はさらに低下します。尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、幕府は慶応3年(1867年)10月に大政奉還を実施。ここで260年続いた江戸幕府は崩壊したのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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