桜田門外の変(1/2)井伊直弼暗殺事件

桜田門外の変

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
桜田門外の変(1860年)
場所
東京都
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安政7年(1860年)3月3日、世間に衝撃が走りました。江戸城の桜田門外(現東京都千代田区霞が関)で大老・井伊直弼が水戸藩の浪士たちの襲撃により暗殺されたのです。「桜田門外の変」と呼ばれる事件により、幕府の権威は失墜し、幕末の争乱、ひいては明治維新へと続いていきます。今回は明治維新の原因と言われる、歴史上の大きな転換点となった桜田門外の変について分かりやすく解説します。

桜田門外の変はなぜ起きた?理由とその背景

「桜田門外の変」は幕府の政権の主導者・井伊直弼がよりにもよって江戸城の目の前で殺害された大事件です。なぜこの事件は起こったのでしょうか?その理由は当時の社会情勢にありました。

江戸末期、幕府は大きな2つの問題を抱えていました。一つが病弱だった13代将軍・徳川家定の後継者問題。もう一つが嘉永6年(1853年)の「黒船来航」以来、諸外国からの開国・通商を求める圧力にどう対応するかという対外関係の問題でした。

後継者問題については、将軍家に近い血筋を持つ紀伊藩主の徳川慶福(家茂)と、知恵者として知られる一橋慶喜(実は13代目の座を家定と争いました)の一騎打ちでした。慶福を推した「南紀派」は政治の主導権を握っていた保守的な穏健派で、譜代大名や大奥の人々がメイン。桜田門外の変で暗殺された彦根藩主・井伊直弼は南紀派でした。一方、慶喜を推した「一橋派」は開国派や攘夷派が多く、外様大名がメイン。慶喜の実父で水戸藩主の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬らが主なメンバーでした。この2つの派閥が揉めていたのです。

対外関係については、幕府は嘉永7年3月(1854年3月)の日米和親条約締結を皮切りに、英国やロシア帝国、オランダと同様な条約を結んで開国。ただし港は限定しており、貿易は許可していませんでした。ところが米国総領事のタウンゼント・ハリスは日米間の貿易開始を訴え、幕府に圧力をかけます。幕府は通商条約締結を結ぶ方向にかじを切りますが、ここで立ちはだかったのが異国嫌いとして知られる孝明天皇。「和親」は許しましたが「通商」は許可しませんでした。

そんななか、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が大老に就任。直弼は天皇の許可がないまま、米国を皮切りにオランダ、ロシア帝国、英国、フランスと修好通商条約を締結します。加えて6月には徳川慶福を後継者として決定しました。

こうした動きに一橋派は大反発。そこで直弼は自らの政策に反対する一橋派をはじめとした人々への弾圧を開始します。徳川斉昭らを隠居させるなど処罰しており、これが「安政の大獄」の始まりでした(詳しくは別記事を参照)。

桜田門外の変のきっかけ「戊午の密勅」

当初は関係者のトップの処罰にとどまっていた安政の大獄が苛烈化した原因、かつ桜田門外の変が起きた要因の一つが、天皇による「戊午の密勅」です。幕府が無許可で修好通商条約を締結したことに、孝明天皇は心底怒っていました。特に幕府の主導者・井伊直弼への怒りは深く、譲位して幕府への抗議を表そうとしたほどです。実は直弼は天皇の許可なく修好通商条約を結ぶことに反対していましたが、そんな実情は孝明天皇には伝わりません。

幕府に憤慨した天皇は8月8日、本来ならば関白の九条尚忠経由で幕府に出すべき勅書を、関白を通さずに水戸藩に直接送り、諸藩に伝達するよう命じました。「戊午の密勅」と呼ばれる勅書の内容は、天皇に無許可で通商条約を締結したことへの強い批判、隠居・蟄居させられた水戸・尾張藩トップへの気遣い、御三家と諸藩は幕府に協力し、朝廷と幕府が一つになる「公武合体」の上で諸外国に軽蔑を受けないような対処をせよ、というもの。このほか、関係する公家などを通して長州藩や薩摩藩などにも「写し」が伝達されました。

勅書は水戸藩の2日後に幕府へも伝えられましたが、幕府よりも先に水戸藩に通達されたことが大問題でした。朝廷の窓口は幕府で、幕府から諸藩に通達を送るのがルールだったからです。「これは水戸藩が幕府に成り代わろうとしているのでは…?」という疑いがもたれたのです。密勅が出された背景には水戸藩の働きかけがあったというリークもあり、直弼は戊午の密勅の関係者を徹底的に捜索して罰します。徳川斉昭は永蟄居させられ、水戸藩家老の安島帯刀は切腹させられました。

このように直弼は水戸藩の密勅関係者を次々と処罰し安政の大獄を苛烈化させていきます。この時弾圧された人々は志士から大名・公家・皇族まで及び、100人以上が何らかの処罰を受けています。加えて、幕府は水戸藩に対し、密勅の返納を求めました。

桜田門外の変①水戸藩の深い怒り

安政の大獄に対する一橋派、中でも水戸藩の怒りは大きく、井伊直弼に恨みを持つようになります。もともと水戸藩は尊王攘夷派と幕府の関係を重んじる穏健派に分かれていました。そんななか幕府から密勅の返納を求められ、穏健的な返納派と尊王攘夷を強行しようとする反対派で揉めにもめました。なかでも尊王攘夷派の過激派は数度にわたって結集して密勅を諸藩に広めようと画策しています。この中心人物が桜田門外の変の首謀者・金子孫二郎です。

安政の大獄による処罰により、水戸藩の大多数は密勅返納派に変わりましたが、返納反対派は強硬に返納を拒絶して反対運動が激化。返納派が暗殺されたり襲撃されたりと、さながら内乱のようになってきました。水戸藩は何とか鎮静化を試みますが、過激派は井伊直弼の暗殺計画を立てて潜伏。結局火種を中に抱えたままになってしまいました。

桜田門外の変②当初は薩摩藩もがっつり絡んでいた?

井伊直弼暗殺の主犯は水戸藩の浪士たちですが、当初は薩摩藩も暗殺計画にかなり乗り気でした。安政の大獄の当初に処罰された島津斉彬は、なんと抗議のために藩兵5000をつれて上洛を計画!ところが直後に死亡しています。コレラにかかったためとされていますが、タイミング的にも毒殺説が出ています。

これを受けて、薩摩藩では若手志士たちが斉彬の遺志を継ごうと動き始めます。後に「誠忠組」と呼ばれるようになる過激派は井伊直弼の暗殺を計画。このグループの中には大久保利通や、安政の大獄から逃れようと奄美大島に潜伏中の西郷隆盛もいました。彼らは井伊直弼の暗殺を「突出」と呼び、準備を着々と進めます。賛同者は約40名にもおよび、本格的な準備が進みました。そして最終段階で斉彬の跡を継いで薩摩藩主となった島津茂久(忠義)に対し、突出脱藩の決意を報告しました。

ところが薩摩藩は誠忠組に待ったをかけます。実権を握っていた茂久の父・島津久光はこのタイミングでの若者の暴走はまずい、と懸念。藩主・茂久の言葉で突出を思いとどまるよう説得します。「突出」計画者たちを「誠忠士」とほめたたえ(誠忠組の由来)、「万一時変到来の節」には斉彬の遺志を貫いて朝廷に「忠勤」することを明言。これにより誠忠組は井伊直弼の暗殺を思いとどまります。暗殺計画者たちは薩摩藩に戻ることになりますが、有村雄助・次左衛門兄弟は藩に戻らず計画に加わり続けました。

桜田門外の変③井伊直弼、暗殺

そして万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変が起こります。この日は上巳の節句、今でいう雛祭りで、幕府の公式行事の日でした。大名たちは毎年江戸城を訪れて将軍に挨拶しており、江戸城を訪れる大名行列を目当てに多くの庶民が見物に集まりました。直弼殺害を狙う水戸浪士ら一行にとっては人ごみに紛れて行列に近づけるため、公式行事は大チャンスだったわけです。

桜田門外の変の記事には続きがあります

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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