武家諸法度(1/2)「元和令」をはじめとした江戸時代の大名統制法
武家諸法度
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、江戸幕府は豊臣家を滅ぼしました。その直後に第二代将軍の徳川秀忠が全国の大名たちに対して発令したのが13条からなる「武家諸法度」です。大名の規範を示した法令は、最初のものは出された時期から「元和令」とも呼ばれました。その後、基本的に将軍が変わるたびに発出され、幾度か改定もおこなわれました。江戸時代の大名たちを法律で規制したことは、江戸幕府が260年の長きに渡り存続する一因となりました。今回はそんな「武家諸法度」について、わかりやすく解説していきます。
「武家諸法度」とは?背景とその目的
武家諸法度は江戸幕府が大名たちを統制するために出された法令です。発布したのは徳川秀忠ですが、その裏には徳川家康の存在がありました。
関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利し、天下を統一して江戸幕府を開いたのちも、豊臣家が存続していたことで政権は不安定な状況でした。ところが大坂冬の陣・夏の陣の結果、慶長20年(1615年)5月に豊臣宗家は滅亡。その直後から家康は大名を統制するための法律を策定し始めます。なお、年号は同年の7月13日に改元により慶長→元和に変わっています。
なぜ家康は法制定を進めたのでしょう。それは、日本各地の支配権を大名に認める代わりに、大名を法で縛り、力を制限するとで安定した政権運営を図ったからです。豊臣宗家が滅亡したとはいえ、西日本中心に豊臣恩顧の大名たちはまだ残っていました。
家康は武家諸法度を発出する前には「一国一城令」を通達(閏6月13日)。西国大名を中心に、国内の居城以外の城を破却するよう命じました。こちらは法令ではなかったものの諸大名は従い、次第に全国に広がっていきます。
次に出されたのが武家諸法度で、1ヶ月後の7月7日のこと。直後に改元がおこなわれたことから「元和令」と呼ばれています。伏見城で諸大名が集まる中、草案を策定した臨済宗の僧侶・金地院崇伝が読み聞かせにより伝達しました。崇伝は家康のブレーンで法案作成や外交から宗教の統制まで一手に引き受けており、「黒衣の宰相」の異名を持つ人物です。大坂冬の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」に関係していたとも言われています。
最初の武家諸法度「元和令」の内容は?
元和令は慶長16年(1611年)に徳川家康・秀忠親子が大名から取り付けた誓紙3ヶ条と金地院崇伝が起草した10ヶ条を合わせた13条からなります。内容については以下の通り。各条には注釈がついていました。
- 文武弓馬の道(文武両道)に励むこと
- 酒におぼれ好色にふけり、賭け事など遊びに呆けなりようにすること
- 法令違反者を匿ってはいけない
- 国に反逆人や殺害者がいたら,速やかに追い出すこと
- 領地に他国の者を住まわせてはならない
- 諸国の居城を補修する際は必ず届け出をすること。新築は固く禁じる
- 隣国の不穏な動きや徒党を組む動きがあれば、早々に幕府に報告しなければならない
- 幕府の許可がない婚姻は禁止する
- 参勤交代の作法について規定(人数など)
- 身分相応の身なりをすること
- 身分の低い者は駕籠に乗ってはならない
- 諸国の武士は質素倹約に努めること
- 国主は政務ができるものを選ぶこと
6の無許可の城の修繕・新築禁止は一国一城令に通じるものがありますが、大名の武力強化を避けるための法令です。また、8の「幕府の許可がない婚姻の禁止」は同じような内容の決まりは豊臣秀吉時代にもありました。家康は秀吉の死後、決まりを破って政略結婚を繰り返して派閥を強化しており、その影響は自分がよく知っていたため禁じたのでしょう。
また、参勤交代について言及がありますが、この時点では義務化されていません。ここでいう参勤交代は江戸を対象としていたものではなく、京都参勤が前提だったようです。
武家諸法度に違反するとどうなる?
武家諸法度は幕府の根幹となる法令で、違反すれば罰則が規定されています。具体的には改易や減封、転封など、領地を取り上げられたり国替えさせられたりといった処分が下されました。
この武家諸法度に違反して処罰された武将のうち、有名なのが福島正則です。当時は安芸国(現広島県西部)と備後国(広島県東部)の50万石を収める広島藩の藩主にになっていました。
広島といえば秋の台風被害で有名ですが、元和4年(1618年)にも台風が上陸。この際広島城が被害を受けたため、正則は城を修復しようと幕府に届け出ます。ところがなかなか聞き入れられません。見かねた正則は城の修理を勝手にはじめてしまい、本丸・二の丸・三の丸と石垣などを無断で修繕しました。幕府には事後報告ですませようと考えていたようです。
それを知った幕府は武家諸法度違反をとがめます。とはいえすぐに改易とはいかず、正則に本丸以外の修築した部分を破却するよう要求して手打ちにしようとしますが、正則は本丸のみを破却し他の修築部分はそのままにしてしまいます。このほか、江戸に送るはずの人質の出発を遅らせるなどの違反が続いたため、徳川秀忠は激怒。結局正則は安芸・備後国の50万石を没収の上、信濃国川中島四郡の高井郡(長野県)と越後国魚沼郡(新潟県)に減転封させられてしまいました。
「元和令」と同時期に出された「公家諸法度」
武家諸法度は大名を対象としたものでしたが、このとき元和令と同時期に出されたものが公家を対象にした「公家諸法度」(のちに禁中並公家諸法度に名称変更)です。江戸幕府が朝廷や公家を統制するために出したもので、徳川家康が金地院崇伝に起草させました。改元後の7月17日、二条城で家康と2代将軍の徳川秀忠、次関白の二条昭実の3名の連署で交付されています。内容は17条からなり、江戸時代を通じてほぼ変わっていません。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。