慶長遣欧使節(2/2)伊達政宗の外交団、スペインとローマ
慶長遣欧使節
5月8日に多くの同行者を残し、ルイス・ソテロと支倉常長は少人数でメキシコシティを出発します。なお、同行者たちは翌年4月28日にアカプルコ港を出発して8月15日に浦賀に寄港しています。
ソテロと常長たちは7月10日頃、ベラクルス沖のサン・フアン・デ・ウルーア港からスペイン艦隊に便乗し、大西洋に向かって出航。10月5日頃にスペイン西南海岸のサンルーカル・デ・バラメダに入港しました。ちなみに常長ら日本人の使節団メンバーは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」です。
スペイン上陸後、一行はセビリア市を経て12月5日に首都マドリードに入り、熱烈な歓迎を受けます。そして翌1615年1月30日、使節団一行はスペイン国王のフェリペ3世と謁見。加えて常長は2月17日、フェリペ3世らの前で洗礼を受けてキリスト教徒に改宗しました。
慶長遣欧使節の交渉は「失敗」
慶長遣欧使節はスペイン側に、仙台藩への聖職者の派遣、スペインとの和平交渉の実現と通商・貿易居上地の締結などを求めましたが、スペインサイドの要求に対する対応はシビアでした。実は、当初スペインは貿易に前向きでした。ところが使節団が出発したのち、日本では12月に家康が宣教師の追放令を出してキリスト教禁教政策を強化し、キリスト教を迫害しはじめたのです。
当然日本にいた宣教師は本国に手紙で状況を報告。このため「家康が禁教政策を実施しているのに、政宗がキリスト教を容認できるとは思えない」と使節は疑われることに。メキシコにいる副王からは「日本からの物品はほとんど重要でない」と貿易上のメリットがない旨を記した書簡も届いています。こうした動きが慶長遣欧使節にとってマイナスに働き、貿易については不透明なまま、という「交渉失敗」状態になったのです。
8月22日、使節団はマドリードを出発し、バルセロナ経由でローマに向かいます。10月25日、使節団はローマに到着。10月29日には教皇の希望によりローマ入市式を行い、ローマ市街をパレード。11月3日にローマ教皇・パウロ5世に謁見して親書を渡しました。
親書で伝えた要求はいくつかありますが、大きいものが「仙台藩へのフランシスコ会修道士の派遣」「仙台領内での高位聖職者(司教)の任命」「通交・貿易をスペイン国王にあっせんすること」「政宗のカトリック王叙任、司教任命意見の付与、騎士団の創設認可」の4点です。法王からは最初の3つは前向きな回答を得ましたが、スペイン政府との再交渉が必要でした。最後の1つは「政宗がキリスト教徒でないので協議できない」とし、政宗のキリスト教徒への改宗を促しています。政宗が非キリスト教徒だったことが、交渉相手に大きなマイナスになったことは間違いありません。
翌年1月7日、使節団はローマを出立。フィレンツェやジェノバなどを経て、4月17日ころマドリードに到着します。そしてスペイン側と再度交渉を実施しますが、結局回答は得られませんでした。日本でのキリスト教徒迫害に加え、ここへきてソテロの主張の正当性が見直され「自らの地位に固執するあまり政宗を日本の王にしようと画策している」と評判が悪化したこともマイナスに働いたようです。
その後、使節団はセビリアに移動してスペイン側と交渉を続けますが、スペイン国王からの返書は得られたものの内容は謝辞などにすぎず外交交渉への返答は得られないまま。ソテロと宗長は同行者を先に返し、体調不良を理由にスペインにとどまり続けて、逆転を狙って交渉を継続しました。しかしうまくいかず、使節団は失意のまま1618年4月2日、迎えにきたサン・ファン・バウティスタ号でアカプルコを出発。8月10日、フィリピンのルソン島に到着します。
慶長遣欧使節のその後
華々しく出発した慶長遣欧使節でしたが、帰国してからは幸せとはいいがたい状況でした。支倉宗長はサン・ファン・バウティスタ号を売り払った後、長崎まで別の船で移動し、1620年9月20日(元和6年8月24日)、仙台に到着します。日本出発から約7年、年号もすでに「元和」に代わっていました。しかも伊達政宗は宗長が帰国した数日後、領内に「キリシタン禁令」の札を立てて本格的にキリシタン弾圧に動き出します。
これはキリスト教徒に改宗した宗長が戻ったことで、幕府から謀反の疑いをかけられることを避けたからだと推察されています。仙台藩を守るためとはいえ、宗長には非常に酷なことですよね。宗長はその後も信仰を保ち続けたようですが、1622年8月7日(元和8年7月1日)、病没しています。
一方、日本がキリスト教禁教策をとっていたことからフィリピンに残らざるをえなかったソテロはといえば、密入国を企てます。しかしその過程で見つかってしまい、長崎奉行に捕まります。仙台藩としてもソテロを助けようと幕府に働きかけますがかなわず、1624年8月(寛永元年7月)、火刑に処され殉教しています。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。