慶長遣欧使節(1/2)伊達政宗の外交団、スペインとローマ

慶長遣欧使節

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事件簿
事件名
慶長遣欧使節(1613年)
場所
宮城県
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仙台城

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江戸時代は鎖国のイメージが強く、海外との外交は徳川幕府経由だった、というイメージが強いかと思います。ところが1613年(慶長18年。今回は海外メインなので西暦・和暦表記が逆です)、キリスト教禁教令が出されるなか、仙台藩の初代藩主・伊達政宗が海外に外交使節団を派遣します。しかも徳川家康公認!それが「慶長遣欧使節」です。支倉宗長ら日本人も参加した使節団の目的はいったい何だったのか。政宗の「真の」狙いは?いろいろな説がある慶長遣欧使節について、目的や参加メンバー、帰国後の動きまで、わかりやすく解説していきます。

慶長遣欧使節とは?メンバーを紹介

慶長遣欧使節は1613年10月28日(慶長18年9月15日)に仙台藩藩主・伊達政宗がメキシコとイスパニア(現スペイン)国王、ローマ教皇に向けて派遣した外交使節団です。使節の正使はフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロ、副使は伊達家家臣の支倉常長が務めました。使節団は約7年に渡り、メキシコやスペイン、ローマなどを訪れ、フィリピン経由で日本に戻っています。とはいえ、帰国時の日本はキリスト禁教の嵐が吹き荒れており、後述しますがソテロは日本に戻れませんでした。

ソテロと常長以外に船に乗り込んだのは、仙台藩士やキリスト教徒(日本人含む)、スペイン大使のセバスティアン・ビスカイノをはじめとした南蛮人、商人、航海士、水夫、船大工など総勢180名。とはいえメキシコに大部分がとどまり、実際に欧州を訪問したのは30名程度だったようです。

ちなみに紛らわしい使節として1582年(天正10年)にキリシタン大名の大友宗麟がローマに派遣した「天正遣欧(少年)使節」がありますが、こちらは外交目的ではなく「日本でキリスト教を布教するため、ローマ法王から支援を得る」ことが主な目的。関わったのはイエズス会で、ソテロのフランシスコ会のライバルに当たる托鉢修道会でした。両者は日本での布教を巡って争っています。

慶長遣欧使節の正使で立役者でもあるソテロは、1574年(天正2年)、スペイン・セビリアの名門の家に生まれます。日本には1603年(慶長8年)に来日して布教活動を進めます。日本語が非常に堪能で、通訳としても活躍したソテロは、聖職者でありながら政治家的な手腕も持ち、日本国内での自らの地位を高めようという気持ちが強いと他の修道会から批判されたこともある、野心的な人物でした。話を膨らましたり、他社を欺いて言いくるめたりしていると当時の書簡で批判されています。個人的には毀誉褒貶の激しい人物だったのではないかと思いますが、真相はいかに。

一方の支倉常長は1571年(元亀2年)生まれの伊達家家臣。600石の知行取りで、足軽組頭などを務めました。政宗からは目をかけられていたようで、常長の実父・山口常成が切腹を命じられ、常長が連座で追放されたにもかかわらず使節団の副使に任命されています。

なぜ政宗は慶長遣欧使節を計画したのか

慶長遣欧使節を計画した伊達政宗は南蛮文化に強い興味を抱いており、キリスト教徒ではなかったにしろソテロをはじめとした宣教師やキリスト教徒たちと交流し、キリスト教の教えや文化を学んでいました。

もう一人、政宗に影響を与えた人物が1611年(慶長16年)に来日した、スペイン大使のセバスティアン・ビスカイノ。2年前にメキシコに向かうスペイン船が日本に漂着した際、日本人が乗組員を助け、幕府がアカプルコまで乗組員を送り届けたことに対する答礼大使として来日しました。なお、スペイン船に乗っていた前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロは徳川家康と日本/スペイン間の通商について議論しており、ビスカイノはその答えを持って戻ってきました。

家康としては、スペインの副王領「ヌエバ・エスパーニャ副王領」の一部である、メキシコの鉱山で利用されていた新しい精錬技術「水銀アマルガム法」を手に入れたいところ。技術者の派遣をもとめていましたが、スペイン側のスタンスは「通商交易と布教はセット」でした。家康としてはキリスト教の布教は受け入れがたいため、ビスカイノとの交渉はうまくいきませんでした。1年後の慶長17年(1612年)、家康は貿易交渉のためビスカイノを乗せた「サン・セバスティア号」をメキシコに送ろうとしますが、船は浦賀沖で難破します。

家康のもとには「貿易は貿易、キリスト教の布教とは別」というスタンスのイギリスやオランダも接近しており、家康としては貿易の交渉相手はほかにもいたわけです。「手間をかけるほどのことはない」と思ったのでしょうか、この船の沈没により、スペインとの外交交渉はストップします。

メキシコ、スペインとの貿易に名乗りを上げた政宗

徳川家康との交渉がうまくいかなかったセバスティアン・ビスカイノですが、家康とは対照的にビスカイノを好意的に迎えたのが伊達政宗です。測量のために北上したビスカイノと会った際、政宗は「フィリピンやメキシコの船の待遇を保証するし、メキシコひいてはスペインと交流したい」とアピールしています。

そもそもなぜ政宗はメキシコやスペインとの交流に積極的だったのでしょうか。それは仙台藩の立地が大きく関係します。当時、スペインは大西洋→アメリカ→太平洋の「西回り航路」を利用し、フィリピン・マニラを拠点に欧州とアジアを航行していました。この西回り航路に仙台藩内の三陸海岸の港がばっちりはまりました。つまり、仙台藩は南蛮への玄関口として機能できる場所だったのです。両者との交流、ひいては貿易は莫大な富を生み出すことが可能。政宗としては実現させたいところですよね。

当時の史料によれば、1611年(慶長16年)秋にはスペインに向かう船の建造を計画していたようで、ソテロと打合せをしている様子が記されています。その後、サン・セバスティアン号の難破などを機に、政宗は家康と交渉して幕府公認で遣欧使節プロジェクトを担うことになります。

政宗はメキシコに戻れなくなっていたビスカイノと契約を結び、船の建造と航海技術を提供してもらう代わりに、政宗が造船費用や船員の俸給を負担し、糧食を提供することなどを約束しました。こうしてスペインの技術を駆使した「サン・ファン・バウティスタ号」の建造プロジェクトがスタートします。幕府の造船奉行や船大工なども加わり、大工800人、鍛冶700人、雑役3000人で約45日間かけて船を作り上げました。

慶長遣欧使節の「真の」目的とは?

慶長遣欧使節の主な目的は仙台藩とメキシコ・スペインとの貿易実現にむけた外交交渉でした。これは、伊達政宗が訪問先のスペイン国王フェリペ3世や、ローマ法王・パウロ5世に送った書簡から推察されます。

ところが、この書簡がくせ者。当時幕府はキリスト教禁教にかじを切っており、1612年(慶長17年)にはキリスト教禁止令を発出しています。これによりルイス・ソテロは捕らえられ、処刑命令まで出されています。政宗の助命嘆願と「使節として派遣するからこちらに送ってほしい」という手紙がなければ、命は危うかったかもしれません…。
そんな状況下での書簡で、キリスト教がどう書かれているかというと、キリスト教を賛美するとともに「家臣や領民にキリスト教を広めたい」「やむを得ない事情で改宗できないが、かなうなら改宗したい」とあり、幕府の禁教令と対立する内容が書かれています。

さらに最後には「ソテロと支倉常長が口頭で話すことによりご判断ください」との文があり、文書化して幕府に確認されてはまずい何か機密事項があったのでは?と疑えます。

こうした内容から、「政宗による江戸幕府転覆計画」があったと唱える研究者もいます。スペインと軍事同盟を結んで徳川幕府を転覆させようというのです。古くからの説ですが、近年ヴァチカン秘密文書館が所蔵する、使節に対するローマ教皇の回答が新たな史料として加わりました。回答によれば、なんと政宗側から「政宗をカトリック王に叙任してほしい」「カトリック騎士団を創設したい」との要望があったというのです。

とはいえ、日本やスペインに軍事同盟に関する書類はまったくないこと、通訳を務めたソテロが暴走したのでは、という反論もあり、議論は続いています。

他にも政宗が詠んだ漢詩を論拠にした「南蛮征服説」や、東日本大震災後に提唱された、1611年(慶長16年)12月に発生した「慶長大津波」からの復興のために実施したという「震災復興説」など、真の目的とされている説はいくつかあります。なかなか興味深いので気になる方は調べてみて下さい。

慶長遣欧使節のルートを追え!

「サン・ファン・バウティスタ号」も無事に完成し、準備万端の慶長遣欧使節は1613年(慶長18年)10月28日、月浦(宮城県石巻市)を出発。約3ヶ月かけて太平洋を横断し、翌1914年1月29日(25日、28日説も)にメキシコの港町・アカプルコに到着しました。そして先発隊がメキシコシティ入りしたのち、3月24日に本隊がメキシコシティに到着。ここで多くの日本人がキリスト教の洗礼を受けていますが、交渉は副王ではなく、本国のスペインで本格的に行われることが決定しています。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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