安政の大獄(2/2)井伊直弼による大規模弾圧

安政の大獄

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事件簿
事件名
安政の大獄(1858年〜1859年)
場所
東京都
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江戸城

江戸城

当時江戸城は登城日が決められていたため、この登城は「不時登城」と呼ばれています。しかし、その批判のかいもなく、6月25日には次代の将軍が徳川慶福であることが発表されます。

そして7月5日、井伊直弼は不時登城を批判し、松平慶永、徳川斉昭、一橋慶喜、徳川慶勝に隠居や謹慎を、徳川慶篤に登城停止を家定の名で命じました。一橋派の主要メンバーが丸ごと政治の舞台から姿を消した、この命令が安政の大獄の始まりでした。

7月8日、直弼は外国奉行を立ち上げ、井上清直と岩瀬忠震らを任命し、7月にオランダとロシア帝国、英国、9月にフランスと通商条約を勅許なしで調印します。2人はいわば「裏切りもの」でしたが能力の高い人材でもありました。通商条約は相手国の治外法権を認める点、関税自主権がない点など日本にとってマイナスな面のある不平等条約だったため、直弼に批判が集まります。

安政の大獄②:水戸藩に出された「戊午の密勅」

一方、幕府の対応に怒り心頭の孝明天皇。当時の公家の日記によれば、「はなはだ御逆鱗のご様子」だったようで、譲位の意思を示すほどでした。そんな天皇は朝廷での会議を経て8月8日、水戸藩に「戊午の密勅」を下します。勅諚は2日後には幕府にも伝えました。

勅諚では、まず幕府が通商条約に勅許なしで調印したことを批判しています。さらに不時登城の結果隠居や謹慎させられた水戸・尾張両家に対しても気遣う言及があり、最後は内憂外患のなか、大老、老中、御三家、御三卿、御家門、譜代・外様の区別なく諸藩一同で評議をおこない、朝廷と幕府が一体となる「公武合体」で徳川家を助け、外国に軽蔑され内容にせよという内容が書かれていました。

なぜ「密勅」なのかというと、本来であれば関白の九条尚忠が参内の上発せられるべきものだったのにしなかったため。なお、関白は事後承認しています。

普通、勅諚はまず幕府に通達され、そこから諸藩にわたるもの。それがなぜ最初に水戸藩に届けられたかは、水戸藩が薩摩藩とともに、幕府を批判するよう朝廷工作を続けていたことが一因です。ただし、薩摩藩は反井伊直弼の筆頭で、軍を率いることまで計画していた島津斉彬が7月に急死(暗殺説も)したのち、表向きは幕府に従う姿勢を見せます。このため、朝廷は攘夷論の強かった水戸藩に密勅を送り、さらに副書で水戸藩から御三家や諸藩に内容を伝達するよう求めました。

孝明天皇としては自分を無視して通商条約を締結した幕府を信じられず、徳川御三家で攘夷論者の徳川斉昭もいる水戸藩に期待をしていた、ということなのかもしれませんが、これは大変掟破りの行動でした。

安政の大獄③:100人以上への苛烈な弾圧

戊午の密勅を知った井伊直弼は怒ります。朝廷との窓口は幕府であり、通達事項はまず幕府を通してから諸藩に送られるものだからです。それをいきなり幕府のメンツは丸つぶれ。水戸藩への密勅を認めてしまえば幕府の支配体制は崩れ、威信は吹っ飛びます。

このため直弼は水戸藩を中心に戊午の密勅にかかわった関係者、ひいては一橋派を徹底的に弾圧します。徳川斉昭は永蟄居、水戸藩家老の安島帯刀は切腹。密勅の拝受にかかわった水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門は斬罪、その息子で留守居役助役の鵜飼幸吉は獄門。元小浜藩士で尊王攘夷の志士としても知られる儒学者の梅田雲浜も密勅の関係者として捕らえられ、拷問の末獄中死しました。

弾圧対象は朝廷の公家や皇族まで及び、これに水戸藩関係者の密書などから明らかになった幕府に反する計画を企てた志士なども弾圧対象に加わります。結果、総勢100名以上が弾圧されることになりました。

弾圧された人物のなかには、福井藩主の松平春嶽の側近・橋本左内もいました。国際感覚があり、優れた人物として知られていた左内は遠島を申し付けられるはずでしたが、井伊直弼の横やりで斬首されました。

また、もう一人注目したい人物が長州藩の吉田松陰です。幕末の有名な思想家で、松陰が主宰した私塾「松下村塾」では久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文といった幕末・明治維新を駆け抜けた名だたる志士たちが学びました。そんな松陰ですが、安政の大獄で捕らえられた梅田雲浜と交流があったことから幕府から危険視されました。江戸での尋問の結果、松陰は間部詮勝暗殺計画を企てていたことをばらしてしまい、斬首刑に処されています。松陰の死は志士たちに大きな衝撃を与え、やがて討幕へと駆り立てていくことになるのです。

そして桜田門外の変へ

安政の大獄により、井伊直弼は反対勢力から強い反感を得て恨まれることになります。その筆頭が水戸藩です。直弼は水戸藩の関係者を厳しく弾圧するとともに、藩主の徳川慶篤に戊午の密勅を幕府に返上するよう何度も要求していました。これを受けた水戸藩では勅書を諸藩に通達すべきという派閥と、勅書は幕府に返納すべきとする派閥が武力行使も辞さない争いを繰り広げることになります。

遂に直弼は安政7年(1860年)1月15日、直弼は「1月25日までに密勅を幕府に返上しなければ斉昭を罪に問い、水戸藩を改易する」と脅します。これを知った水戸藩士達は怒りに震え、直弼襲撃を決意。幕府も水戸藩士たちの動きを警戒していましたが、万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城外桜田門付近で水戸脱藩浪士ら計18名による襲撃を受け、首を刎ねられ命を落とします。享年46(満44歳没)。この江戸城の目の前で幕府の重臣が殺害された「桜田門外の変」により、幕府の権威は失墜。尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、討幕へと進んでいくのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。