一国一城令(2/2)2000以上の城が消えた幕府の大名統制策

一国一城令

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事件名
一国一城令(1615年)
場所
東京都
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江戸城

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例えば「加賀百万石」で有名な前田氏の金沢藩は、加賀(石川県南部)・能登(石川県北部)・越中国(富山県)の三令制国を治める大名。当初は加賀国の金沢城のみ許されていましたが、前田利常が徳川家と親しい関係にあったことから、後に加賀国に小松城を再建することを許可されています。とはいえ一国一城であれば能登と越中にも城があってもよい気がするのですが…。

また、池田氏の鳥取藩は因幡国(鳥取県東部)・伯耆国(鳥取県中・西部)の二令制国で三城を許されました。池田氏には徳川家康の娘・督姫が嫁いでおり、将軍家の親戚だったことや、いまだに幕府が毛利氏を警戒していたことなどが一因だったようです。鳥取城と米子城、そして陣屋扱いになりますが倉吉城の三城を有していたほか、黒坂藩(鳥取県日野郡)が改易になった後は黒坂城も陣屋として手に入れています。

佐竹氏の久保田藩(秋田藩)は、出羽国(山形県、北東部を除いた秋田県)の一令制国で三城を得ています。こちらは幕府による優遇策ではなく、物理的に出羽国が広すぎたためで、久保田城、大館城、横手城を残しました。実は佐竹氏、関ヶ原の戦いの際にどっちにつくか家臣で意見が割れた結果西軍寄りの行動をしており、それを徳川家康が咎め、もともといた常陸国(茨城県)から出羽国に減転封されていました。幕府としては減転封で佐竹氏の勢いを弱めることができたと考えており、新天地でいろいろと不慣れな佐竹氏に恩を売ろうという考えもあったのかもしれません。

このほか、加藤氏の熊本藩(肥後藩、熊本県など)は熊本城と麦島城の一国二城が認められました。ところが麦島城は元和5年(1619年)の大地震で倒壊。その後、2代藩主の加藤忠広が幕府に新城をつくる許可を得て、城の位置を松江に移して八代城を完成させ、その後も続いていくことになります。

なぜ麦島・八代城が破却から免れたかというのは、実ははっきりわかっていません。城の位置が肥後国と薩摩国の境目にあることから、島津氏の薩摩藩(鹿児島県、宮崎県南西部)を警戒・監視するためなのではという説、キリシタンや異国船への備えという説、熊本藩の内部分裂を阻止したかったという説などが出されていますが、真偽のほどは不明です。とはいえ、加藤清正の娘・八十姫は徳川家康の息子で紀伊和歌山藩の初代藩主・徳川頼宣の正室ですし、2代藩主の忠弘は慶長19年(1614年)に徳川秀忠の養女である琴姫を正室に迎えていますから、幕府との関係が深いことは確か。そうした事情もあり、二城を認められたようにも思えます。

一国一城令の例外④大名側が「城ではなく要害(または役屋)」とごまかした場合

幕府側の配慮ではなく、大名側が「これは城ではなく要害屋敷(または役屋)だ」とごまかしにかかったケースもあります。仙台藩(宮城県全域、岩手県南部・福島県の一部など)の伊達氏がこの例で、要害屋敷とありますが、一部には石垣もあり、「これ城なんじゃ…」というものもあります。貞享4年(1687年)に幕府に届け出た要害屋敷はなんと21ヶ所もあったのだとか。ちなみに仙台藩は仙台城に加え、伊達政宗の右腕・片倉小十郎景綱が城主だった白石城も破却を免れています。

幕府は割と仙台藩に甘かったように見えますが、ごまかしを認めたのは東北地方に一揆が多かったため配慮した、片倉家を引き立てることで伊達家と勢力を二分させ仲たがいさせ、仙台藩の勢力減を狙ったなど、さまざまな説が挙げられています。

一国一城令の例外⑤大名側が幕府に配慮した例

何とか城を残そうとあれやこれやと考える大名がいる一方、潔く城を破却したのが毛利氏の萩藩でした。周防国(山口県東南半分)・長門国(山口県西半分)の二令制国でしたが、長門国の萩城を残し、岩国城などを破却しています。これに対し幕府は「周防と長門の二国を納めているのだから、岩国城は破却する必要はなかったのでは…」と冷静に指摘。岩国城は破却損となってしまいました。

岩国城の城主は毛利元就の孫・吉川広家。最後まで岩国城の破却に反対していましたが、毛利宗家が幕府に目をつけられていることから、幕府におもねる形で破却するよう要求されたことで泣く泣く破却する羽目になったのだとか。また、この破却には関ヶ原の戦い以来の吉川家と毛利宗家の対立が背景にあったという説もあります。

毛利宗家の毛利輝元は関ヶ原の戦いの際、西軍の総大将に就任しましたが、吉川広家は東軍有利と見て独断で家康に内通して毛利氏の本領安堵を求めていたのです。そして関ヶ原の戦いでは布陣するも出陣することなく戦を終了。これで安心かと思いきや、徳川家康から輝元の行動を攻められて毛利宗家の改易と、広家に周防・長門国を与えるという沙汰がありました。これを受けた広家は自らの領地を毛利宗家に譲り渡しましたが、宗家からすれば「広家が動けば関ヶ原の戦いに勝っていたのでは?」という思いは当然あったでしょう。岩国城の破却はそういった背景もあり、宗家からの制裁だったのかもしれません。

一国一城令の後に出された「武家諸法度」

城の数に規制を設けた一国一城令でしたが、その翌月、幕府は武家諸法度を口頭で発布します。武家諸法度はその後も数度にわたり出されているので、この時のものは別名「元和令」と呼ばれています。ここで幕府は「諸国の居城修補をなすといえども、必す言上すべし。いわんや新儀の構営堅く停止せしむる事」、つまり城の修繕は勝手にせず幕府に事前に伝えること、増築や新しい城を建てるのは禁止であると定めています。

武家諸法度は破ると重い厳罰が下されました。よく「一国一城令のせいで改易させられた人」として名があがる福島正則ですが、正則が破ったのは武家諸法度のほうです。正則は元和4年(1618年)に広島に台風が上陸し、広島城が被害を受けたことから城を修復しようと幕府に届け出ます。ところがなかなか聞き入れられません。見かねた正則は城の修理を勝手にはじめ、幕府には事後報告ですませようと考えました。

それを知った徳川秀忠は「武家諸法度に抵触した」と怒り、正則を改易しようと試みますが、他の武将への影響を考えたのか一度クールダウン。修復した石垣や櫓の破却などの条件で正則を許そうとしました。ところが正則は条件を守らず不十分な対応しかしなかったため、秀忠は正則を信濃国川中島四郡の高井郡(長野県)と越後国魚沼郡(新潟県)に減転封させています。

一方、一国一城令の罰則はといえば、当初はきちんと城を破却していない場合でも見逃されることもあり、緩い感じでした。例えば薩摩藩の島津氏は城の破却を積極的に実施せず、寛永10年(1633年)に幕府の役人が諸国を見廻った際、「なぜ他国のように城を破却していないのか」と突っ込まれています。これに対し、島津氏側は「城を掘り崩すそこを田畑にして知行を増やそうとする者がいるから」と言い訳じみた回答をしていますが、役人はスルーしています。

そんな一国一城令が再び注目を集めるのが、寛永14年(1637年)10月から翌15年(1638年)2月まで続いた「島原の乱」です。一揆軍が立てこもったのは、破却された原城趾でした。このため幕府は島原の乱後に一国一城令を強化。廃城となった城郭を一揆勢などが利用しないように、石垣を破壊するなど徹底的に城を破却させるよう大名達に求めるとともに、監視を強化していくのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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