一国一城令(1/2)2000以上の城が消えた幕府の大名統制策

一国一城令

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事件簿
事件名
一国一城令(1615年)
場所
東京都
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江戸城

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関ヶ原の戦いで勝利して徳川家康が江戸幕府を開いたのち、慶長20年・元和元年(1615年)に諸大名を統制するために幕府が出したのが「一国一城令」です。名称から分かる通り、国(令制国)ごとに原則として居住する城以外の支城をすべて破壊するよう命じたもので、これによりもともと3000あった城が170程度まで減ったと言われています。幕府による大名を統制するために発布されており、あまりに多くの城が壊されたので厳守された!と思われがちですが、実はこの一国一城令には例外が多々ありました。今回はそんな一国一城令について分かりやすく解説していきます。

一国一城令とは

一国一城令は「貴殿御分国中居城をば残し置かれ、其外の城は悉く破却あるべきの旨、上意に候」とあるように、国内の居城以外の城はすべて破却せよと諸大名に通達したものです。通達したのは慶長20年(1615年)4月から5月にかけて行われた「大阪夏の陣」で豊臣宗家が滅亡した直後の、同年閏6月13日のこと。7月からは「元和」に改元されていることなどから「元和一国一城令」とも呼ばれています。徳川幕府第2代将軍の徳川秀忠の命によるものとされていますが、実際は徳川家康が立案したものでした。

一国一城「令」とありますが、江戸幕府の土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連署奉書で出されたもので、厳密には法令ではありません。幕府による大名統制策の1つとされていますが、大阪夏の陣直後に出されたことから、諸大名の動揺を抑えるためか丁寧な表現を使用。強権的な法令でなく奉書でふわっとした内容を出し、諸大名の反応もチェックしていたのでは、という説もあります。実際、「破却」についてはどこまで壊せばいいのか明示されておらず、各大名のとらえ方により徹底的に城を壊す場合もあれば、石垣程度を軽く壊して終わらせる場合もありました。

実はこの一国一城令、発布当初は畿内・山陽・山陰など西日本の大名が対象で、徐々に全国に広がったようです。なお、東日本については豊臣秀吉の時代、天正18年(1590年)7月から8月の奥州仕置で城が破却されており、あまり対象としてクローズアップされませんでした。

一国一城令が出された理由は?

江戸幕府が一国一城令を出した理由は、諸大名の力を削ぎつつ幕府に権力を集中させるためでした。西日本は豊臣恩顧の外様大名が多い地域ですから、幕府としては軍事拠点を減らしたいという考えもあったようです。

「一国一城令を出すほど城が多かったの?江戸時代に入って戦は落ち着いたよね?」と思いがちですが、実は慶長年間は関ヶ原の戦い前後から「築城ラッシュ」が起きていました。関ヶ原の戦いの論功行賞で、大名は加増や改易など大規模な配置転換がありました。しかも、西軍は負けたとはいえ豊臣宗家はまだ残っており、豊臣恩顧の大名と徳川方の対立は継続中。このため戦になりやすい国境沿いに支城が多くできたのです。当時の記録によれば、慶長14年(1609年)にはなんと1年で25の天守が立ったのだとか。これは家康でなくても城を減らしたくなりますよね…。

というわけでせっせと建てた城を一国一城令で壊さざるを得なかった大名たちですが、デメリットだけだったのかといえば、実はそうでもなかったようです。原則として「一律令国あたり一城に限る」ということは、大名の家臣たちは城を持てなくなるわけですから、家臣が力をつけて下剋上、とはいかなくなりました。大名にとって家臣を統制しやすくなるというメリットもあったわけです。

一国一城令の「例外」の数々

名前から一つの令制国に一つの城しかないように見える一国一城令でしたが、実は例外がかなりありました。そもそも幕府は城をいつまでに・どのように・どの程度破却しろといった細かい指定をしておらず、先に紹介した連署奉書で通達したのみ。「これは城ではなく砦です」と言って逃れる大名や、先走ったのか幕府におもねったのか、城を必要以上に破却した大名もいました。例外についてある程度分類すると、いくつかのパターンに分けられるので、一つ一つ見ていきましょう。

一国一城令の例外①一国を複数の大名が統治している場合

一つの令制国につき城は一つですが、その一国を複数の大名が統治している場合は例外措置として、大名の数だけ城が置かれました。例えば伊予国(愛媛県)は藤堂氏の今治城、伊達氏の宇和島城、脇坂氏の大洲城、加藤氏の松山城のように複数の大名が自城を持つことになりました。徳川幕府としてもいらぬ争いを生みたくなかったということでしょう。

一国一城令の例外②大名が複数の国を統治している場合

①とは逆に、大名が複数の律令国をまたがって領有・統治している場合です。例えば藤堂氏の津藩は伊勢国(三重県の北中部、愛知・岐阜県の一部)・伊賀国(三重県西部)を領有しているため、伊勢国に阿濃津城、伊賀国に上野城の二国を許されています。

一国一城令の例外③幕府の配慮により複数の城を許された場合

厳密な決まりのない「一国一城令」は、幕府との関係次第では一令制国に一城ではなく、複数の城を持つことが許されました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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