豊後崩れ(2/2)大分の潜伏キリシタン一斉検挙

豊後崩れ

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事件簿
事件名
豊後崩れ(1660年〜1682年)
場所
大分県
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府内城

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宗麟の時代、キリスト教は豊後の府内・臼杵・津久見や、大野郡野津・三重・宇目地方、直入郡朽網、速見郡由布院地方などを中心に広がり、一説によれば最盛期には3万人を超えていたと言われています。

ところが宗麟の跡を継いだ大友義統は天正18年(1587年)4月にキリスト教に改宗したものの、6月に秀吉が出したバテレン追放令により即棄教。宣教師の退去を命じるなど反キリスト教の動きを見せます。

その後、義統は朝鮮を攻めた「文禄の役」の際の失態により改易になり、豊後は地元の豪族が分割統治することに。その後、豊後は徳川家康が天下を取った関ヶ原の戦いの褒美として家臣たちに細かく分配されたことで、杵築・日出・府内・臼杵・佐伯・岡・森藩の7つの藩が置かれる「小藩分立」の状態になりました。ちなみに現在の大分県としてみると、豊前の中津藩を加えて8藩に分かれていたことになります。

そんな豊後では、江戸時代初期でもキリスト教は盛んでした。当時の状況は20世紀にマリオ・マレガ神父が収集した「バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ神父収集文書」など、さまざまな史料から垣間見ることができます。そうした史料によれば、慶長18年前後の豊後は臼杵藩の高田(大分県大分市)と野津(大分県臼杵市)、岡藩の志賀(大分県竹田市)にイエズス会の拠点がありました。また、稲葉氏が治める臼杵藩はキリシタンに友好的で、藩内のキリシタンは約1万5000人いたというデータもあります。第3代藩主の稲葉一通の正室は細川ガラシャの娘だったこともあり、宣教師たちは精力的に活動して教会を建築しました。

また、岡藩初代藩主の中川秀成は高山右近とは従兄弟、キリシタンだったと言われる古田織部とは義理の兄弟であり、本人もキリシタンだったのではと言われている人物。このため岡藩もキリスト教には寛大で、慶長9年(1604年)にはイエズス会が藩内に聖堂を建設しています。

そんな状況が一変したのが、慶長17年(1612年)と18年(1613年)に家康が出したキリシタン禁教令でした。臼杵藩は江戸幕府の政策に倣い、慶長19年(1614年)には高田や野津の宣教師たちを追放し、領民にキリスト教からの改宗を強要しています。史料によれば、慶長19年に10人、元和8年(1622年)に50人がキリスト教を棄教しています。

このほか、府内藩や小倉藩、岡藩でもキリシタン弾圧の動きが見え始めます。岡藩では中川秀成の跡を継いだ中川久盛がキリシタンの迫害を進めました。当時のイエズス会の年報によれば、「小藩分立」の豊後では幕府への忠誠の証として潜伏キリシタンを弾圧をしていたようです。力のない小藩は改易を恐れていたということでしょうか。さらに島原の乱が発生したことで、各藩はキリスト教禁教政策をより強化していくことになります。

豊後崩れの発生

キリスト教の禁教政策が強まる中、万治3年(1660年)5月、大分郡熊本藩領高田手永(大分市)でキリシタンの男女70人余りが捉えられました。これをきっかけに高田や葛城、丹生(いずれも大分市)で取り締まりが強化。臼杵・岡・府内藩などの藩領や他藩、幕府領にその流れは広がり、多くの潜伏キリシタンが捕縛されました。この流れは天和2年(1682年)まで続き、「豊後崩れ」と呼ばれています。ちなみに「崩れ」というのは密告などでキリシタンが集団的に露見し、取り調べの結果捉えられて何らかの処分を受ける事件のことを指します。

豊後崩れは各藩ではなく長崎奉行が主導して実施されたものでした。当時の史料を合わせると、豊後崩れの時期には合計1000人超のキリシタンたちが逮捕されて、時に拷問を受け処刑されたと推定されています。

例えば臼杵藩だけで期間中に578名が捕縛されています。このうち海部郡久土村(大分市)では、万治3年から寛文9年(1669年)までに156人が捕縛されました。また、貞享3年(1686年)に日田郡永山城の城主が長崎奉行に送った報告書『豊後国大分郡・玖珠郡切支丹宗門親類書』によれば、豊後崩れの期間中に大分郡と玖珠郡で捕まった人は220人で男性が125人、女性が95人。このうち死罪が57人、長崎牢死が27人、日田牢死が32人、許され放免されたものが65人などとなっており、かなり細かい記録が残されています。

摘発されたキリシタンは藩が実働部隊となって捕縛し、捕縛された人は原則として長崎に送られ、幕府による厳しい吟味を受けました。その結果、多くの者が棄教しました。棄教した「転びキリシタン」は記録・監視対象にはなったもの、元の家に戻ることができました。とはいえ、規則を破った場合は処刑対象になっており、棄教したとはいえ完全にキリスト教を捨てられていなかったケースが一定以上存在していたようです。

ちなみに豊後崩れ当初は大っぴらにキリシタンを捕縛するのではなく、秘密裏にキリシタンかどうかを探り事件化を避けていたようです。秘密裏に実施しようとした理由は定かではありませんが、大量摘発により村社会が崩壊することをいだという説もあるようです。

同時多発的に起きた「崩れ」の意図は

実は豊後崩れの同時期に、別の場所でも「崩れ」が発生しています。明暦3年(1657年)には肥前国大村藩領の郡村(長崎県大村市)を中心に「郡崩れ」が起きており、608人が捕縛、411人が斬罪になっています。また、寛文元年(1661年)に美濃・尾張周辺で起きた「濃尾崩れ」では寛文5年(1665年)に207人、寛文7年(1667年)に756人、寛文9年(1669年)に33人が処刑されました。

こうした大規模な「崩れ」が発生した背景には、幕府による見せしめ的な要素に加え、幕府が諸藩を統制して自らの権力を誇示する意図もあったようです。キリスト教禁教を徹底する制度を確立する裏で、幕府は地方支配を強化していきました。長崎奉行が主体となって崩れを起こすことで、崩れ後も九州全域のキリスト禁教政策に介入し、九州における幕府の力を強めたのです。

さらに幕府は禁教政策の裏で戸籍制度を確立させました。幕府は寛文11年(1671年)に労働力の把握などを目的にしていた人別改帳と、宗門改帳を統合した「宗門人別改帳」を作成することを義務付けていますが、これはいわゆる戸籍簿の役割を果たすものでした。キリシタン禁制制度の裏側には、こうした政治的意図が多分にあったのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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