豊後崩れ(1/2)大分の潜伏キリシタン一斉検挙

豊後崩れ

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事件簿
事件名
豊後崩れ(1660年〜1682年)
場所
大分県
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府内城

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江戸時代にキリスト教が禁教となった後、幕府から隠れるようにキリスト教を信じてきた潜伏キリシタン。そんな潜伏キリシタンは幕府の度重なる摘発により捕縛・弾圧されてきました。そのうちの一つが万治3年(1660年)から天和2年(1682年)に豊後国(現在の大分県の大部分)で起きた「豊後崩れ」です。豊後露顕(ぶんごろけん)、万治露顕とも呼ばれるこの事件では、一説によれば1000人近い潜伏キリシタンが捕まったと言われています。なぜ幕府はキリスト教を禁止し、潜伏キリシタンを摘発し続けたのでしょうか。今回は豊後崩れについて、その背景も交えながら詳しく見ていきます。

キリスト教の伝来と豊臣秀吉の禁教政策

豊後崩れについて語る前に、日本にキリスト教が伝わり、禁教となるまでについて簡単に解説しておきます。日本にキリスト教を伝えたのは、カトリックのイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは天文18年(1549年)に鹿児島に上陸して布教を進めます。その後、ルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリニャーノなどのイエズス会宣教師たちが九州や畿内を中心にキリスト教を広めていきます。

イエズス会はキリスト教の布教と南蛮貿易をセットにして時の権力者にアピールしていきます。加えて時の権力者・織田信長がキリスト教の布教を容認したこともあり、大友宗麟や小西行長、高山右近といった「キリシタン大名」が現れます。彼らが領民への布教を積極的におこなったことなどからキリスト教徒、つまりキリシタンの数は増え、最盛期には20万人のキリシタンがいたと推定されています。

信長の跡を継いだ豊臣秀吉も当初はキリスト教を容認していましたが、キリシタンたちによる寺社仏閣の破壊、キリシタン大名による領民の強制改宗やイエズス会への土地の寄進、日本人奴隷の海外輸出問題などにより、キリスト教を禁じる方向に舵を切ります。秀吉は天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発布してキリスト教を規制。最初は緩やかな規制でしたが、文禄5年(1596年)10月のサン=フェリペ号事件により、同年12月にキリスト教「禁教」令を発布しました。そして慶長元年12月(1597年2月)にはフランシスコ会の宣教師と日本のキリスト教徒、合計26人を長崎で処刑するなど強硬策に出ています。

江戸幕府もキリスト教を排除

徳川家康の時代に入ると、江戸幕府は南蛮貿易のメリットもあったからか、当初はキリスト教を黙認していました。しかし慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起きた、キリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」を契機に、家康はキリスト教禁止令を発布して直轄地における教会の破壊と布教の禁止を命令。キリシタン大名に棄教を迫ります。慶長18年(1613年)には全国に禁教令を拡大し、キリスト教を本格的に排除しはじめました。このころから民衆の信じる宗教を調査して記す「宗門改帳」の作成が開始されたと言われています。

家康の決断は、勢力を拡大するキリシタン達を弾圧したいという意図もあったと思いますが、貿易先の変更も一因でした。これまで日本でキリスト教を布教していたカトリック教国のポルトガルやスペインは布教と南蛮貿易をセットにして日本に売り込んでいましたが、このころプロテスタントのオランダのように貿易だけを目的にした国が日本にやってきていたのです。後に江戸幕府は鎖国を決定し、カトリック教国の入国を拒否し、長崎で中国とオランダを相手に貿易を独占していくことになります。

その後、第2代将軍の徳川秀忠も家康を踏襲し、元和2年(1616年)に「二港制限令」を出してキリスト教禁止の姿勢を示したことで、キリシタンたちは棄教するか、潜伏してキリスト教を信じ続けるか、2つの道が示されました。このうち潜伏を選んだ潜伏キリシタン達はその後、厳しい弾圧と迫害を受け続けていくことになるのです。

島原の乱がキリシタン弾圧を加速化

キリスト教禁教政策が進む中、潜伏キリシタンたちの不満が爆発し、大規模な一揆が発生します。それが寛永14年(1637年)10月から翌寛永15年(1638年)2月末まで、島原・天草(長崎県島原市・熊本県天草市)を中心に起きた「島原の乱」です。この大規模な反乱で、幕府はキリスト教への危機感をさらに強め、布教の禁止を徹底していきます。

幕府はキリスト教排除のための方策として、キリスト像やマリア像を足で踏ませる「踏み絵」や、5戸を単位とした「五人組」による相互監視・密告奨励などのシステムを全国に広げていきます。特に踏み絵は九州で盛んにおこなわれました。

寛永12年(1635年)からは、キリシタンでないものは必ずどこかの寺の檀家になる「寺請制度」を開始し、その範囲を徐々に拡大していきました。仏式の葬式を義務付けるとともに、当時は神仏混合なので、氏子として神社への参拝も義務付けています。

島原の乱後の寛永17年(1640年)には大目付の井上政重がキリシタンを摘発し、人々の信じる宗教を定期的に調査する「宗門改」の担当者、「宗門改役」に就きます。宗門改役は明暦3年(1657年)に正式に設置されており、さらに幕府は寛文4年(1664年)に諸藩に宗門改の実施と専任の役人の設置を命じました。これにより宗門改帳が各地で作成されていくことになります。

キリスト教が盛んだった豊後

ではいよいよ豊後の話に入りましょう。禁教政策以前、キリスト教は九州で盛んに信仰されており、豊後でも同様でした。戦国時代に豊後を統治していたのは「キリシタン大名」として知られる大友宗麟。フランシスコ・ザビエルと会ったこともある宗麟は、天正6年(1578年)にキリスト教の洗礼を受けました。天正10年(1582年)には同じ九州のキリシタン大名・大村純忠や有馬晴信とともにローマに天正遣欧少年使節を派遣しています。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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