浅井畷の戦い(2/2)北陸の関ヶ原、前田利長VS丹波長重
浅井畷の戦い
続いて利長は越前国に侵攻。これに対し、西軍側の武将達は戦を避けようとします。丸岡城の青山忠元は恭順の意を示し、青木一矩は病気を理由に「前田軍に対して構えることはない」との書状を送りました。加えて、安居城(福井県福井市)の戸田勝成はやむを得ず石田三成方についたことを説明した上で「家康が出陣していない状況で、前に西軍方についた武将、後ろに小松城がある状況では無傷で上方に行くのは難しい。家康と作戦を練り直しては」と提案します。
そうした中「西軍が伏見城の戦いで勝利し上方を制圧した」「上杉景勝が越後を得て加賀攻めを計画している」「吉継の救援部隊が金沢に向かっている」などの噂が流れ始めます。このうわさを聞いた利長はさぞ不安に思ったことでしょう。
実はこれ、すべて大谷吉継が利長を金沢に戻すための計略でした。伏見城の戦いに参戦していた吉継は、利長が東軍について出陣する準備をしていると知るやいなや、伏見から越前に移動し、8月4日には青木一矩のいる北庄城に到着していたのです。
そして同日、吉継は中川光重(中川宗半。利長の妹婿)を捕らえて脅迫し、利長に手紙を書かせます。手紙には吉継が4万の軍を率いて越前の救援に向かっており、このうち3万は海路で金沢を目指しているというものでした。
義弟からの知らせはとても信ぴょう性があります。この手紙に慌てた利長はわずかな兵を小松城へのけん制として残し、残りの兵と共に金沢に戻ります。その戻る最中に発生したのが浅井畷の戦いだったのです。
浅井畷の戦いはどっちが勝ったのか?
前田利長は8月8日(6日とも)に金沢に向かって撤退を始めます。軍の多くは御幸塚城(石川小松市町)に、利長は三道山城(石川県能美市)にそれぞれ入りました。そして御幸塚城の武将たちは軍議の結果、小松城付近を突破することに決定。小松城は丹羽長重が依然として守っていましたが、前田軍の武将達には「迂回しては加賀武士の恥」という気持ちがあったようで、結局7つの部隊を編制して進むことになりました。
こっそりと小松城を通過したいところですが、さすがにそういうわけにもいかず、利長の動きは小松城の長重に知られます。長重は軍を率いて出陣。こうして8月9日、浅井畷で野戦が勃発しました。前田軍の2万5000に対し、丹羽軍は3000。圧倒的に丹羽軍が不利に思えますが、そこは地の利をよく知る長重、浅井畷という立地を生かします。
浅井畷の畷(なわて)というのは縄のように細い筋になっている道のこと。沼や田んぼのなかの細い道では前田軍の兵力的メリットは活かせません。しかも当日は雨で鉄砲も使えないなか、白兵戦はスタート。この戦いでしんがりを務めた長連竜隊が大きな損害を受け、長氏の家臣9名と従者2、30人が死亡しています。一方の丹羽軍も松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門らが討ち死にしています。
前田軍の先発隊が救援に戻ったころには丹羽軍は引き上げており、結局この戦いはどちらの勝利とも決まらないまま終了。引き分けだったとも、丹羽軍が引き上げたから負けたとも言われますが、小松城が落とされず残っていることからある意味丹羽軍の勝利ともいえるでしょう。
その後の前田氏と丹羽氏
浅井畷の戦いの後、前田利長は無事に金沢城に戻りました。大谷吉継の金沢攻めが嘘だとわかった後は能登国・七尾城(石川県七尾市)にいる弟の前田利政とともに家康のために出陣しようとしますが、中立の立場を取っていた利政は動きません。結局9月11日、利長のみで再び上方に向かって南進します。9月18日には丹羽長重が利長に降伏。この際人質として、利長は前田利家の4男・前田利常を差し出しています。この時点で関ヶ原の戦いは終了しており、結局前田氏・丹羽氏という織田家の重臣たちの2代目は関ヶ原の戦いに絡むことはありませんでした。
しかし、徳川家康は利長の動きを評価していました。その結果、関ヶ原の戦い後の論功行賞の際、利長は弟の七尾城に加え、小松城や大聖寺城などを加増され、加賀・能登・越中の3ヶ国・120万石を有する大名になったのです。
利長はその後、前田利常を跡継ぎとして養子に迎えました。利常は慶長5年、当初の約束通りに家康の孫にあたる珠姫(当時3歳)と結納を交わします。そして珠姫は慶長6年(1601年)に金沢入りしました。こうして前田氏と徳川氏は縁戚関係になり、結びつきはますます深まりました。
一方の丹羽長重は所領を没収されましたが、慶長8年(1603年)に常陸国古渡(茨城県稲敷市)1万石として大名に復帰。その後大坂の陣で武功を挙げたことで徳川秀忠の御伽衆になり、陸奥国白河(福島県白河市)10万700石に加増されています。
ちなみに長重と利常の関係は悪くなかったようです。利常が長重の人質になった際、長重が幼い利常を憐れみ自ら梨を剥いてあげ、利常は晩年まで梨を食べるたびにその話を思い出していたのだとか。そんなちょっとしたほっこりエピソードが残されています。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。