浅井畷の戦い(1/2)北陸の関ヶ原、前田利長VS丹波長重

浅井畷の戦い

浅井畷の戦い

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事件簿
事件名
浅井畷の戦い(1600年)
場所
石川県
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金沢城

金沢城

小松城

小松城

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慶長5年(1600年)9月、関ヶ原(現岐阜県関ヶ原町)で徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した「関ヶ原の戦い」。実は同時期に関ヶ原以外の各地で東軍VS西軍の戦いが繰り広げられていたのはご存じでしょうか?そのうちの一つが浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)です。関ヶ原の戦いの約1ヶ月前に東軍の前田利長と西軍の丹波長重が浅井畷(石川県小松市)で戦った戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦的な存在でした。利長は前田利家の、長重は丹波長秀の息子。つまり織田家家臣の2代目が敵味方に分かれて争ったのです。今回はそんな「北陸の関ヶ原」といわれる浅井畷の戦いについて詳しく見ていきます。

豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭

浅井畷の戦いについて説明するには、慶長3年(1598年)8月18日の豊臣秀吉が亡くなったところまでさかのぼる必要があります。秀吉の死後、五大老の徳川家康と、五奉行の石田三成は対立を深めていきました。家康は秀吉から、跡継ぎの豊臣秀頼を助けるよう頼まれていましたが、秀頼がまだ6歳と幼いことをいいことに実権を握ります。さらに秀吉が諸大名の無許可の縁組を禁止していたのにもかかわらず、それを無視して黒田長政や加藤清正、福島正則の養子らと自分の養女を縁組するなど、三成と対立する大名家との縁組を進めました。

これに対抗したのが秀吉の盟友、前田利家。石高は家康よりも低かったものの、律儀な人柄から豊臣政権では武将達から信頼される重鎮で、秀頼の傅役も務めていました。三成は反家康のために利家を頼り、家康も利家には一目置いていました。家康が婚姻政策を進めたことで三成と一種即発状態になったときも、利家が三成側についたことで多くの大名が利家に従い、家康は和睦を決意しています。利家は家康の独走に歯止めをかけられる唯一の存在だったのです。

ところが慶長4年(1599年)閏3月3日、利家は秀吉の後を追うように病没してしまいます。跡を継いだのは長男の前田利長で、五大老と秀頼の傅役の座を引き継ぎました。この際、利家からは「3年は大坂を離れるべからず」という遺言がありましたが、利長はなぜか金沢に帰国しています。江戸時代中期に編纂された加賀藩の通史『三壺聞書』には家康に勧められたためとありますが、はっきりとした理由はわかっていません。

利長が金沢に戻った翌月、五奉行の一人・増田長盛が家康に対し、利長や五奉行の浅野長政が家康を討とうとしていると讒言。しかも利長が淀殿と不倫関係にあり、二人が結婚して夫婦になったのちに秀頼を後見するのではという疑いまで口に出しました。この讒言により、家康は加賀征伐を決意したとされています。もっとも実は家康の自作自演だったのでは、という疑いも持たれていますが…。

家康のこの動きに慌てたのは利長です。家康と戦うべきか否か、前田家の中でも意見は分かれましたが、結局利長は不戦を選び、重臣の横山長知を派遣して家康に釈明します。その結果、加賀征伐は避けられました。なお、この際取り決めにより、利長は母の春芳院(まつ)を人質として江戸に送ることに。一方の家康は人質を得る代わりに、徳川秀忠の娘・珠姫を前田利家の諸子で4男にあたる利常に嫁がせる約束をしています。

こうして前田家を封じた家康は、次に会津(福島県)の上杉景勝をターゲットに動き出します。景勝は軍事増強を狙って慶長5年(1600年)3月に神指城の築城を開始したほか、以前の本拠地・越後(新潟県)の奪還をたくらみ越後の地侍たちに一揆を起こさせるなど暗躍していました。また、景勝の部下・直江兼続が光成と親しかったこともあり、景勝は光成方の人間でした。

景勝の動きに対し、越後を統治していた堀秀治は反発して家康に報告。家康は景勝に対し、謀反を企てていないようなら上洛するよう使者を出して呼びかけますが、これに対して兼続が、謀反の疑惑を皮肉たっぷりに否定した「直江状」を返信します。直江状の内容に家康は激怒し、上杉討伐(会津征伐)を決意します。とはいえこの直江状、写しが残るだけで現存しておらず、おりその真偽が今も議論されています。

慶長5年6月、大坂城の豊臣秀頼に挨拶した家康は、本田忠勝や井伊直政、福島正則、黒田長政、山内一豊などを連れて会津に出発しました。そして7月2日に江戸城に到着し、上杉征伐の準備を進めていきます。

石田三成の挙兵と大谷吉継の暗躍

徳川家康が東に向かうと、残された石田三成は反家康の動きを強めついに挙兵します。7月には佐和山城(滋賀県彦根市)に盟友・大谷吉継を招いて家康を倒そうともちかけます。吉継は豊臣秀吉子飼いの部下で、秀吉に「100万の軍勢を預けて戦を指揮させてみたい」と言わしめた軍才の持ち主。三成の親友的ポジションの人物です。重い皮膚病を患っていたことで知られていますが、茶席で吉継が茶碗に膿を落としてしまったとき、他の武将がスルーする中、三成だけは茶を飲みほしたことから、三成に恩義を感じたというエピソードが残っています。

じつは吉継は家康の上杉征伐に合流しようとしていました。このため吉継は家康の軍事力の高さから三成を止めようと説得します。「三成には人望がないから無理」とまできっぱり言い放ちましたが、三成の決意は固く、結局吉継は三成の覚悟を受け入れて西軍につくことを決めました。そして佐和山城での会議を経て、総大将に毛利輝元を迎え入れて西軍の形が整います。

このとき前田利長はどうしたかというと、春芳院を人質に取っていた家康の東軍につきました。実は利長は5月、家康から上杉征伐に参加するよう言われた際、春芳院を人質に出したときの縁もあり吉継に対応を相談していました。その後、家康に反した吉継は他の武将と共に利長に「西軍につけば北国7ヶ国を差し上げたい」と提案。利長は「母を仕方なく人質に出して家康に従ったのに、今度は家康に反して母を捨てろというのか!」と激怒したと言われています。

一方、吉継は北庄城(福井県福井市)の青木一矩や大聖寺城(石川県加賀市)の山口宗永など、越前(福井県嶺北地方、岐阜県北西部など)や加賀南部(石川県南部)の武将達を多数調略することに成功しました。このときに西軍に味方した武将の一人が、浅井畷の戦いの主役・丹波長重です。丹羽長秀の長男で、小松城(石川県小松市)の城主として12万5000石を有する武将でした。

西軍を整えた三成は、まずは家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めます(伏見城の戦い)。7月19日から始まった戦いは、元忠の激しい抵抗により長引きます。実は家康はもともと伏見城を「捨て石」とみており、元忠も討死を納得の上、決死の抵抗を続けていたのです。8月1日に戦は終了しますが、西軍は足止めされることになりました。

一方の家康はといえば、上杉征伐を中止して下野国(栃木県)の小山城で軍議(小山評定)を行い、今後の対策を決定しました。そして上杉対策として次男の結城秀康を宇都宮城に残し、8月5日に江戸城に到着。その後、三成討伐の準備を進めていくことになります。

前田利長の挙兵に立ち向かう知将・大谷吉継

伏見城の戦いのさなか、北陸でも戦が始まります。7月26日、前田利長が金沢城(石川県金沢市)から2万5000の兵と共に出陣し、丹波長重のいる小松城を包囲したのです。小松城は湿地に建てられ、近くの梯川の水を活用した水堀が幾重にも巡らされた難攻不落の「水城」。しかも中には丹波長重自らが3000の兵と共に籠っています。攻略に時間がかかると考えた利長は小松城を避け、8月2日に山口宗永と息子の修弘がいる大聖寺城を包囲。宗永と修弘はわずか500(2000)の寡兵で奮戦しますが3日には城は落ち、二人は自刃しました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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