備中高松城の戦い(2/2)黒田官兵衛の水攻め
備中高松城の戦い
そうこうしているうちにようやく毛利の援軍が到着し、城の南の庚申山に吉川元春が、さらに南の日差山に小早川隆景が着陣しましたが、なすすべがありませんでした。備中高松城は物資の補給路を断たれ、浸水により環境が悪化し、兵たちの士気は低下。そんななか、城主の清水宗治は必死に兵士たちを励ましつつも城内を見回りし、裏切り者が出ないよう対策していたそうです。
ちなみに水攻めに成功した後、秀吉は信長に援軍を要請する使者を出します。手柄を独り占めせず信長に配慮するあたりさすがは秀吉。そんな秀吉に応える形で、信長は明智光秀を援軍に出すことを決め、自らも出陣しようと準備を進めるのでした。この光秀が、まさか自分を裏切ることになるとは、この時信長は夢にも思っていなかったことでしょう。
備中高松城の戦い④和平交渉のさなか、本能寺の変勃発
舞台を備中高松城に戻しましょう。水攻めを無事に成功させた豊臣秀吉は、高松城を包囲しつつも毛利方と講和交渉を開始しました。毛利方も外交担当の軍曹・安国寺恵瓊を黒田官兵衛にもとに派遣。講和の条件として「城兵の安全と中国5ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の譲渡を提示しますが、秀吉は中国5ヶ国に加えて清水宗治の切腹を要求。交渉は物別れにおわりました。
このままいけば秀吉が有利な状態で和睦交渉が進む…誰しもそう思っていたことでしょう。ところが6月3日の夜(4日の早朝とも)、秀吉はショッキングなニュースを知ることになります。明智光秀が毛利方に送った使者を捕らえたところ、本能寺の変で光秀が織田信長を討ったこと、さらに光秀と毛利方で秀吉を挟み撃ちしようという提案が書かれた密書を手に入れたのです。
そう、秀吉の援護に向かうはずの光秀が向かったのは信長のいる本能寺でした。光秀が謀反を起こしたのです。それを知った秀吉はショックで号泣しました。ところが黒田官兵衛は「(光秀を討って)天下を取れるチャンスが来た」と秀吉に冷静にささやいたそうで、このことをきっかけに秀吉は官兵衛を警戒するようになった、というエピソードが伝わっています。
本能寺の変を知った秀吉は信長の死を徹底的に隠すとともに、すぐさま毛利方との和睦に動きました。翌6月4日には安国寺恵瓊に再び会い、3日以内に和睦を結ぶことを条件に領土の割譲を備中・美作・伯耆の3ヶ国に譲歩すること、宗治が自刃すれば城兵は助けることを条件として提示しています。
毛利方としては忠義の武将・清水宗治を何とか助けたいところですが、この条件を受け入れざるを得ません。相次ぐ戦により拠点となる城を落とされ、毛利方にはもう戦を続ける余力はありませんでした。宗治自身も「自分の首で主君と部下の命が助かるなら」と自害を決意します。
備中高松城の戦い⑤清水宗治の切腹
6月4日の午後、身だしなみを整え、別れの宴をおこなった清水宗治は、小舟に乗り豊臣秀吉の陣に向かって城から漕ぎ出します。そして舟の上で能の「誓願寺」を舞った後、辞世の句を呼んで切腹しました。享年46歳。辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」。武士の鏡ともいうべき見事な切腹に、秀吉は宗治を称賛し、手厚く葬ったそうです。なお、この時宗治の兄の月清入道、弟の難波宗忠、小早川隆景の家臣である末近信賀も自害。4人を介錯した國府市正も自刃しています。
なぜ秀吉は宗治の自害に最後までこだわり続けたのか。和睦交渉の際、毛利方が自害を拒否したにもかかわらず、得る領地を減らしてまでも宗治の首を欲したのはなぜだったのでしょうか。今となっては秀吉の心中を推し量るしかありませんが、本能寺の変がカギだったようです。
秀吉からすれば、本能寺の変を知った毛利方がすぐさま和議を破って秀吉を追撃しようとする姿が容易に想像できたことでしょう。そうならないための抑止力として、宗治の首は必要でした。忠義の士・宗治の命と引き換えに結んだ和議を無駄にすることは、毛利方にとってかなり抵抗感があることです。敗者の見せしめの意味もあったとは思いますが、追撃のリスクを下げるために秀吉は宗治の自害を強硬に要求しました。そのかいもあったのか、本能寺の変を知っても毛利方は動きませんでした。
備中高松城の戦い後の「中国大返し」
備中高松城の戦いが和睦により終結した後、すぐさま豊臣秀吉は京に引き返しました。備中高松城には杉原家次を配し、6月6日には約2万の軍を率いて京に向かって出発。10日間で約200kmの距離を駆け抜けた後、6月13日の「山崎の戦い」で明智光秀軍を破りました。
一方、毛利方が本能寺の変の事実を知ったのは秀吉が撤退した翌日でした。秀吉を追撃しようと思えばできるタイミングですが、結局毛利方は追撃していません。
なぜ追撃しなかったのかについては諸説ありますが、和議の際起請文を結んだため武士の義として追撃できなかったとも、秀吉が撤退前に堤防を決壊させたために物理的に追撃できなかったとも、宇喜多秀家軍約1万が抑えとして残っていたためだとも、追撃しているうちに周辺の敵対勢力が攻めてくるのを警戒して動かなかったとも、「毛利は天下を狙ってはならない」という元就の言葉があったからだとも言われています。ちなみに追撃しようとしたのは吉川元春で、それを止めたのは小早川隆景。これにより二人の関係は悪化していきます。
その後、毛利氏は天下争いに加わることなく、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に秀吉に下っています。その後は秀吉の配下として積極的に協力し、四国・九州征伐や文禄・慶長の役などに参加して活躍。最終的には毛利輝元は小早川隆景とともに豊臣政権の五大老に上り詰めました。関ヶ原の戦いでは輝元率いる毛利氏は西軍について負けましたが、滅ぼされることなく周防・長門国を治める長州藩の藩主に減封。こうして毛利氏は江戸時代も続いていくことになるのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。