天目山の戦い(1/2)武田氏の滅亡
天目山の戦い
天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長は甲州征伐を行い武田氏を滅ぼしました。その最後の戦いが、3月11日に天目山(現山梨県甲州市大和町木賊野山)で起きた「天目山の戦い」です。織田軍から逃れて天目山に向かう武田勝頼たちに立ちふさがる織田軍・滝川一益の追手たち。勝頼の自刃のための時間を稼ぐためか、織田軍にせめて一矢報いようとしたのか、わずかに残った武田氏家臣たちが追手たちに必死に抵抗します。今回はそんな天目山の戦いと、そこに至るまでの甲州征伐について見ていきます。
信玄の「跡継ぎ」武田勝頼
天目山の戦いについて解説する前に、最後の武田氏当主・武田勝頼について押さえておきましょう。勝頼は1546年(天文15年)に信玄と側室である諏訪氏の娘・諏訪御料人との間に生まれました。信玄にとっては4男にあたります。
勝頼は当初、武田氏ではなく諏訪氏の跡継ぎとして位置づけられていました。このため元服後、武田氏が代々名に用いる「信」の字を継がず、諏訪氏が使う「頼」の字を使って「諏訪四郎勝頼」と名乗っています。元服後は諏訪氏(またはその一部)を継いで信濃国高遠城(長野県伊那市)に入りました。
このまま何もなければ諏訪氏のトップとして生涯を終えたのでしょうが、信玄の嫡男・武田義信が謀反を疑われて廃嫡され、他の兄弟も出家や夭折していたことなどから、勝頼は信玄の後継者と定められます。とはいえ武田氏に敗れた諏訪氏のトップ、つまり武田氏の家臣である勝頼が跡取りになることについて、武田家臣団のなかには快く思わないものもいました。
このため信玄は勝頼と正室の龍勝院(織田信長の養女)との間に生まれた武田信勝を正式な跡継ぎとし、勝頼を信勝の後見人として一時的に当主とすることを決定します。しかし、この中途半端な決定が武田家臣間の不和を生み、後の武田氏の凋落へと繋がっていくのです。
信玄の死後の勝頼
跡継ぎを定めた武田信玄は元亀3年(1572年)9月、西上作戦を開始して徳川領に攻め込みます。その目的は徳川家康の治める三河国(愛知県東半部)の平定とも、力をつけてきた織田信長の討伐とも、京への上洛とも言われていますがはっきりしていません。
武田軍は同年12月の「三方ヶ原の戦い」で家康を破り、東三河に侵攻します。ところがその途中、信玄の病状が悪化。このため武田軍は甲斐国(山梨県)に引き上げます。そして元亀4年(天正元年、1573年)4月、旅の途上で信玄は病死。享年51歳でした。
そして勝頼は後見人として武田氏の当主になりました。とはいえ勝頼はあくまでも中継ぎ的存在。『甲陽軍鑑』によれば信玄の遺言においても「勝頼は陣代(後見)」と書かれています。当主就任を果たしたとはいえ、予想通り家臣団の反発もあり、勝頼は苦労しつつも戦国武将らしく領地を拡大していきます。
勝頼は信玄の「自分の死は3年隠せ」という遺言に従い、周囲には「信玄は隠居し、自分が家督を相続した」と発表。とはいえ隣国の家康は信玄の死を疑っており、長篠城(愛知県新城市)を攻めて勝頼を挑発します。一方の勝頼は信長が治める美濃国(岐阜県)に攻め込み、わずか1ヶ月で20弱の城を落とした後、信玄が手に入れられなかった堅城・高天神城(静岡県掛川市)を攻め落としました(高天神城の戦い)。勝頼の時代で武田氏は最大の領土拡大に成功することになります。
長篠の戦いで敗北、弱体化が進む武田氏
次々と領土を拡大し、絶好調の武田勝頼ですが、天正3年(1575年)5月、武田氏を裏切って家康についた裏切り者の奥平貞義・信昌を攻めた「長篠の戦い」で、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗してしまいます。わずか500人が立てこもる長篠城を1万5000の武田軍が攻めた戦いは、当初は武田軍の有利に思えましたが、長篠城が必死に抵抗。そうこうしているうちに3万8000の織田・徳川連合軍が到着します。
武田信玄の時代から仕える重臣たちは勝頼に撤退を提案しますが、勝頼は戦いを決断。結果、「武田四天王」と呼ばれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀に加え、土屋昌続、真田信綱・昌輝親子など、主だった武将達は死んでしまいます。さらに1万人以上の兵をこの戦いで失い、武田氏は大きな打撃を受けたのです。
その後、勝頼はなんとか武田氏を立て直そうと奮闘しますが、織田信長はそのすきを逃さず勝頼が落とした城を次々と奪還します。勝頼は北条氏政の妹を後室に迎えることで北条氏との同盟を強化し、共に信長に対抗しようとしますが、天正6年(1578年)3月に上杉謙信が死んだことから端を発した跡継ぎ争い「御館の乱」に下手に介入したことで北条氏との関係が悪化し、同盟は破たん。北条氏は織田・徳川方につき、武田氏の敵となりました。一方、勝頼が御館の乱で上杉景勝を支援したことで、武田・上杉は同盟関係になります。
武田氏と織田・徳川・北条氏との戦いは厳しく、天正9年(1581年)には徳川軍が陸海の交通拠点として重要な高天神城を奪還。この際、勝頼は高天神城に救援を出すことなく、城は落ちてしまいます。信長との和睦を検討していたため援軍を送るのをためらったとも、北条氏をはじめ他との戦いに追われており救援に向かう余力がなかったとも言われています。ちなみにこの時高天神城側から信長に降伏する旨を伝える手紙が出されていますが、勝頼の権威失墜を狙った信長は降伏を拒否しています。こうして高天神城は落城、籠城していた兵士たちはほぼ全滅してしまいました。
高天神城は武田氏にとって重要な拠点だったため、勝頼は自らの領国各地から兵士を集めて配置していました。つまり、武田家臣団の関係者が兵士として詰めていたわけです。その高天神城に対し援軍を出さなかった勝頼の威信は地に落ち、これまで忠誠を誓っていた家臣たちは次々と武田氏を見限ることになります。
信長、武田氏との決戦へ
武田勝頼はこうした状況になっても織田信長との和睦を模索していました。武田氏が人質としていた信長の5男・織田勝長を信長の元に返すなどさまざまな策を講じますが、結局和睦は黙殺されます。信長としては弱体化した武田氏を潰す大きなチャンスだったので、朝廷に働きかけをおこない、正親町天皇に武田勝頼を「朝敵」として認めさせるなど、勝頼を討つ準備を進めていきます。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。