三木城の戦い(2/2)「三木の干殺し」と呼ばれた籠城戦

三木城の戦い

三木城の戦い

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事件簿
事件名
三木城の戦い(1578年〜1580年)
場所
兵庫県
関係する人物

加えて秀吉軍は、三木城の北東にある平井山に本陣を置き、三木城を包囲するために付城を築き、補給路を断とうと画策します。なお、付城というのは戦いの際に敵状の周辺に臨時に築く前線基地(砦)を指します。

こうして順調に攻略が進められるはずでしたが、天正6年10月、織田方にとって大事件が発生します。秀吉の後方支援をしていた、摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の荒木村重が突如謀反を起こし、毛利方に寝返って有岡城(兵庫県伊丹市)に立てこもってしまったのです。これにより、別所氏は摂津の港で兵糧を陸揚げし、花隈城経由で丹生山砦を通過し、東から城に兵糧を搬入ルートを確保することができました。

一方秀吉にとっては京の信長との連絡路が途切れる大ピンチ。信長としても別所長治に毛利氏、石山本願寺の戦いのなかでさらに荒木村重と戦うのは厳しいので、なんとか説得しようと考えます。こうして村重の元に蜂須賀正勝などが送り込まれますが失敗。この時最後に送り込まれたのが、竹中半兵衛とともに秀吉のもとで軍師を務めていた黒田官兵衛でしたが、こちらも失敗して幽閉されてしまいました。官兵衛の幽閉が解かれるのは有岡城が落城した天正7年(1579年)11月。実は官兵衛は三木城の戦いにはほとんど参加できなかったのです。

三木城の戦い③徐々に孤立する別所氏

新たな補給路を得たとはいえ、三木城の兵糧は十分ではありません。この状態を打開しようと、天正7年(1579年)2月、別所氏は秀吉の本陣のある平井山へ約2500の兵を率いて出陣しますが、あえなく敗退。別所貞治の弟・弟の別所治定らが討死しています。

その後、織田信長は再度織田信忠を播磨に派遣します。信忠は付城を6ヶ所増築して三木城の包囲を強固にしました。5月には秀吉軍が花隈城から丹生山経由の兵糧運搬ルートの要だった明要寺を陥落させたのち、翌日に淡河城を攻略。このため東側からの兵糧運搬ルートは利用できなくなり、三木城はさらに苦境に立たされます。ちなみにこのころ、兵糧攻めの策を立てた竹中半兵衛が平井山の陣で病没しています(6月13日、享年36歳)。

9月10日、毛利氏・別所氏により最後の兵糧運び込み作戦が実施されます。毛利軍・別所軍が防備のうすかった三木城西側の平田陣や大村付近を攻撃し、すきを見て兵糧を城に入れようとしたのです。激戦の結果、織田方の武将・谷衛好は討ち取られてしまいますが、結局毛利・別所軍が敗れ、兵糧を運び込むことはかないませんでした。

その後、10月には毛利方だった宇喜多直家が離反して織田方につき、毛利氏の本拠地と播磨の間が分断されてしまいます。さらに秀吉軍が付城をどんどん構築したこともあり、その三木城への大掛かりな兵糧の搬入はありませんでした。

三木城の戦いで織田方が築いた城は推定で40以上。特に南側の付城は多重土塁を繋げて壁のようにして封鎖しました。その総延長は約5.5kmにも及び、この多重土塁が補給をストップさせる決め手となったと考えられています。なお、この段階で秀吉は一度別所氏に対して降伏勧告を行っていますが、別所氏は拒否しています。

一方、三木城を助けていた荒木村重の守る有岡城はどうなったかというと、9月に村重が城を脱出したことで城の中から織田方に内応するものが現れます。トップが城からいなくなったわけですから当然士気は落ちます。そのすきに織田軍が調略を進め、有岡城は11月、織田軍の総攻撃に耐え切れず落城しています。

三木城の戦い④「三木の干殺し」から開城へ

長い間兵糧不足に悩まされた三木城。食料は底をつき、草木まで食べつくされ、人々は飢えに苦しんでいました。多くのの死者が出るなか、天正8年(1580年)1月6日、豊臣秀吉は調略により宮ノ上要害の乗っ取りに成功。11日には別所長治の弟・別所友之や叔父の別所吉親が守っていた新城を奪取しました。

そして1月15日、秀吉は別所方に「悪あがきをせず切腹してはいかがか」と降伏を進める書面を送ります。これに対し、別所長治は降伏勧告を受諾。城兵を助ける代わりに、城主一族が切腹することが条件でした。そして1月17日に長治は自害。享年23歳(26歳説も)でした。また、長治は自害の際、息子と妻も自らの手で殺害しており、友之も妻を殺した後に切腹しています。

一方、吉親は「腹を切れば首が安土に運ばれる。世間にいろいろと言われるのは嫌なので、城に火をかけて焼け死んで骨をわからなくしてしまえ!」と切腹に抵抗。屋敷に火をつけましたが、家臣たちに取り押さえられて切腹させられました。

こうして三木城は開城し、2年以上にわたる三木城の戦いは終わりを告げたのでした。なお、城主一族の切腹により助かるはずだった城兵たちですが、秀吉は立てこもった人々を一ヶ所に集めて殺害するよう命じていたことが、当時の書状から分かります。一方で城兵は助かったという史料もあり、開城後、城の人々がどうなったかはっきりとわかっていません。

その後、三木城は秀吉が城代を置き、豊臣政権下では直轄地になり城番が入りました。しかし、元和3年に出された一国一城令によって廃城となり、歴史の舞台から姿を消すことになるのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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