比叡山焼き討ち(2/2)信長による延暦寺での「大虐殺」
比叡山焼き討ち
同年8月、信長は北近江に進軍して浅井攻めを開始。9月3日に近江一向一揆の拠点だった金森城(滋賀県守山市)を落とした後、9月11日に園城寺(三井寺、滋賀県大津市)付近に陣を置き、比叡山延暦寺攻めの準備をします。この園城寺は比叡山延暦寺と同じ天台宗の寺ですが、比叡山延暦寺と宗教的に対立していた僧侶たちの拠点で、幾度となく武力衝突も起こしていました。
こうした信長の動きは延暦寺側も察していたため、信長に対し黄金を送って攻撃をやめるよう嘆願します。ところが信長は拒否。このため延暦寺側は僧兵たちを山頂の根本中堂に集合させるなどして攻撃に備えました。
そして9月12日に信長は比叡山延暦寺に対する総攻撃を命令。まずは比叡山山麓にある坂本(滋賀県大津市)に火を放ちます。この時の様子が『信長公記』に書かれていますが、火は根本中堂・日吉大社をはじめとして仏堂に神社、僧坊や経蔵などを一棟もの残すことなく焼き払い、煙は雲のごとく湧きあがり、山は灰燼の地と化したとのこと。当時の史料によれば、煙は京の町からも見えるほどでした。
『信長公記』によれば、人々は八王子山に逃げのぼり、日吉大社の奥宮に逃げ込みましたが、信長の兵は攻め登り「僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」落としたそうです。また、女性や小さい子供は捉えて信長の前に突き出されたとあります。とにかくひたすら首を落としたので、あたりには数千もの死体がごろごろ転がっており、目にも当てられぬ有様だったそうです。
また、同時代の公卿・山科言継による『言継卿記』にも記述があり、言継は「僧俗男女三四千人切り捨て、堅田等放火、仏法破滅、説くべからず、王法いかにあるべきや」と信長を非難するとともに不安をあらわにしています。
信長の比叡山焼き討ち②本当に大規模なものだったの?
以上が文献から読み解く比叡山焼き討ちについてですが、実際はここまでひどいものではなかったという説が現在は有力視されています。昭和後期に数度にわたって実施された発掘調査の結果、焼き討ちで焼失したことが分かる建物は根本中堂と大講堂のみで、それ以外は焼き討ち以前になくなっていたものが多いことが分かりました。また、発掘では虐殺があったとすれば出てくるべき大量の人骨も出土されていません。このため実際は寺社の一部と坂本の町を焼いた態度だったのでは、との説が出ています。
『信長公記』によれば、当時の比叡山延暦寺の僧侶たちの評判が著しく悪く、山に女性を招いて色欲にふけり、仏教で禁じられた肉食をし、金銀財宝をため込んでいたとのこと。奈良興福寺多門院の僧侶による『多聞院日記』でも、元亀元年時点で比叡山延暦寺の伽藍は荒れ果てており、僧侶たちはほとんどが坂本に住んでおり、乱れた生活をしていた様子が分かります。
そもそも『信長公記』は信長の死後に書かれており、『言継卿記』もまた聞きの内容を書き記したもの。結局のところ、比叡山焼き討ちについては燃えてしまったこともあり、はっきりとしたことはあまりよくわかっていないのが現状です。
信長の比叡山焼き討ち③焼き討ちした理由は?
織田信長が比叡山焼き討ちをした理由について、『信長公記』では戒律を破り勝手気ままにふるまう僧侶たちに対する憤りと、自ら敵対する浅井・朝倉軍に与したことに対する「鬱憤」が記されています。
信長自身はキリスト教を保護しつつも神仏は否定しない、いわば宗教的には特に偏りがないスタンスだったようですが、自らに歯向かうものには容赦しませんでした。しかも延暦寺は僧兵のいる軍事拠点で、地理的にも近江につながる交通の要衝。京を守るには押さえておくに越したことはありません。こうした複合的な理由で比叡山は焼き討ちされるに至ったと考えられています。
焼き討ち後の比叡山延暦寺
比叡山延暦寺の焼き討ち後、織田信長は9月13日には比叡山を出て上洛し、将軍御所に報告をしたのち9月20日には岐阜に戻っています。その後、延暦寺と日吉大社の寺領・社領は没収の上、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の5名に配分されました。特に明智光秀は近江国志賀郡(滋賀県大津市など)の支配を任せれ、坂本城を築城して居城としています。当時の書状から見ると、光秀は比叡山焼き討ちに積極的に関与していたようです。
その後、比叡山延暦寺は逃げ延びた僧侶達によりたびたび復興を企てられますが、信長がストップをかけます。結局復興が許可されたのは比叡山の焼き討ちから約13年後、豊臣秀吉の時代に入ってからでした。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。