長島一向一揆(2/2)信長が2万人を大虐殺

長島一向一揆

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
長島一向一揆(1570年〜1574年)
場所
三重県
関連する城・寺・神社
長島城

長島城

関係する人物
早尾口:本隊(信長の馬廻衆メイン)・中央
織田信長、織田信広、羽柴秀長、安藤守就、氏家直通、河尻秀隆、佐々成政、丹羽長秀、前田利家など
香取口:北西
柴田勝家、佐久間信盛、稲葉貞通、蜂屋頼隆など
市江口:予備隊・北東
織田信忠、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、森長可、池田恒興など
水軍
九鬼嘉隆、滝川一益、北畠具豊(織田信雄)など

参加した武将はオールスター勢ぞろい(ただし畿内の明智光秀や越前守に就任した羽柴秀吉は参加せず)、信長の本気度を推し量ることができます。また、今回は大湊の取り締まりを強化して水軍もばっちり配備。まさに総力戦です。

第三次長島一向一揆②信長、2万人を焼き殺す

天正2年(1574年)7月14日、織田信長は陸軍を動かし3方向から長島攻撃を開始します。7月15日には北上してきた水軍も加わり、一向一揆勢をさらに追い込みました。一揆勢はその結果、中洲にある長島・篠橋と揖斐川を隔てて西にある大鳥居・屋長島・中江の5つの砦に分かれて立てこもりました。信長はこれらの砦に対し兵糧攻めを仕掛けるとともに攻め続けます。

8月3日には大鳥居が、12日には篠橋が落ちました。実は両砦とも信長に恐れをなして降伏を申し出ましたが、信長は断固として許しませんでした。大鳥居では夜間に脱出しようとした一揆勢約1000名が織田軍に討ち取られて陥落。篠橋からは「内通するので長島城に移動したい」という偽りの提案がありましたが、織田方としても長島城を圧迫することができるため、許可しています。

その後1ヶ月半の記述は『信長公記』にはありませんが、信長は兵糧攻めを淡々と続けていたようです。そうしているうちに残された3つの砦の兵糧はつき、餓死者が続出しました。このため9月29日、長島の一向一揆勢は籠城している人々の助命を条件に織田方に降伏・開城を申し入れます。そして小舟で逃げようとしますが、信長は逃げる人々に対し鉄砲を乱射。さらに兵士たちが攻撃します。いわゆる人々を「根切」にしたわけです。周囲の川は一向一揆勢の血で赤く染まったと伝わっています。

これに怒った一向一揆勢は決死の覚悟で反撃に出ます。『信長公記』によれば、7、800人の人々が裸体に抜き身の刀1本で織田軍に突撃して奮戦し、多くの武将達を討死させました。この戦いで信長の叔父・織田信次や庶兄の信広、弟の秀成や従兄弟の信成などの織田家の一族が討ち死しています。さらに脱出に成功した一揆勢は北伊勢口を経由して大坂に逃げ延びました。

この長島の一向一揆勢による反撃に信長は大激怒します。そして残る中江と屋長島に対し、周囲に逃亡防止用の策を幾重にもめぐらせたあげ、四方より火を放ちます。これにより約2万人の一向一揆勢は焼き殺されてしまったのです。

信長はなぜこのような残虐ともいえる行動に出たのでしょう。だまし討ちした相手にこれだけの被害を与えられたことで一向一揆衆を警戒したのか、それとも自軍の被害をこれ以上拡大しないために徹底的につぶすしかないと思ったのか。2万人を焼き殺さねば、と思うほど一向一揆勢の力の強さを認めていたのかもしれませんが、その心中はどのようなものだったのでしょう…。

何はともあれこうして長島一向一揆は終結し、信長は岐阜城に戻りました。なお、長島城は後に滝川一益の居城となっています。

長島一向一揆後の信長と一向宗

長島一向一揆が終わった後も織田信長と石山本願寺率いる一向宗との戦いは続きます。信長は天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで徳川家康と共に武田勝頼を破った後、もう一つの一向宗の一大拠点である越前に向かい、越前一向一揆の討伐に乗り出します。この際、信長は一向一揆勢の追撃と殲滅を命じ、その結果2万人以上が虐殺されています。そしてその後、信長は石山本願寺を包囲し、木津川口海戦など、石山本願寺との本格的な戦いに取り組んでいくことになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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