永禄の変(2/2)「剣豪将軍」足利義輝、三好三人衆らに討たれる

永禄の変

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事件簿
事件名
永禄の変(1565年)
場所
京都府
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二条城

二条城

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なお、この訴訟ですが、単なる方便とも、当初は本当に訴え、つまり、臣下が将軍の御所を軍事的に包囲して要求や異議を申し立てる「御所巻」のつもりだったのか、はっきりとわかっていません。

もともと、当時の史料から三好義継は5月19日、清水寺に参詣する予定だったものの、急遽変更して御所を包囲しています。参詣はカモフラージュだったのか何か突発的な事態が起きたのか。なぜこのタイミングで変を起こしたのか、はっきりとわかっていないのが現状です。

さて、当日御所内では激戦が繰り広げられましたが、とくに義輝側は大奮戦。十数名で数十人を討ち取っています。一方義輝は約30名残っていた近臣たちと最期の盃を交わした後、三好軍に討って出ました。近臣たちが次々と討死・自害するなか、義輝も自ら薙刀や刀をふるって奮戦しましたが多勢に無勢。結局討死しました。享年30歳。辞世の句として「五月雨は 霧か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」が伝わっています。

このほか、義輝の正室で近衛稙家の娘でもある大陽院は近衛家に送り届けられて無事でしたが、義輝の母・慶寿院(近衛稙家の妹)は自害に追い込まれます。小侍従局は身を隠していたところを捉えられ斬首されました。

なお、将軍側は三好氏を警戒し、数年前から御所周辺の堀や土塁の補強工事をおこなうなどしていましたが、永禄の変はそんな工事の終了する前に起こりました。また、『日本史』によれば、義輝は前日に御所を脱出しようとしていますが、近臣たちは「将軍が逃げるとは権威が失墜する!」と反対。こうした近臣たちの説得により、義輝は御所に戻っています。三好氏の襲撃を予感していたのでしょうか。

『剣豪将軍』の伝説的な立ち回りは創作?

義輝の死については大変ドラマチックなエピソードが残されています。義輝は剣豪・塚原卜伝の直弟子として伝わっており、剣聖・上泉信綱にも師事したことがある人物。塚原卜伝からは奥義「一之太刀」を伝授されたという話まで伝わっており(真偽は定かではない)、「剣豪将軍」の異名を持っています。

義輝の死の様子についてははっきりとはわかっていません。もっとも華々しい書き方をしているのが頼山陽による『日本外史』です。このなかで義輝は自らの周囲の畳に秘蔵の名刀を突き刺しておき、敵を切って血や脂で切れ味が悪くなった名刀を捨てては新しい刀を引き抜いてまた戦うという、すさまじい奮戦ぶりを見せています。『日本外史』は江戸時代後期のものですからこれはさすがに創作でしょう。

『日本史』によれば、義輝は薙刀や刀をふるって奮戦するも、敵の武器で傷つき地面に倒れたところを一度に襲い掛かられて殺害された、とのこと。また、フロイスが事件の直後に書いた書簡によれば、義輝は腹に槍傷、額に矢傷、顔に刀傷を受けた結果亡くなったそうです。このほか、槍で足を払われて倒れたところを上に障子をかぶせられたあげく刺殺された、観念して最終的には切腹した、などの説もあります。

多くの人が非難した義輝殺害

永禄の変は世間にどう受け止められたのでしょうか。将軍が家臣に殺害されるという事件を知った人々は驚くとともに、首謀者の三好三人衆と松永久通を非難しました。上杉謙信(当時は義輝の「輝」の字を貰い輝虎)は大激怒し、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓いを立てています。朝倉義景も「前代未聞」と憤慨。三好氏と敵対していた畠山氏の重臣・安見宗房は謙信の家臣に弔い合戦を促すほど怒りを表しました。

正親町天皇は3日間政務を停止し、義輝に「従一位左大臣」を追贈。公家で日記『言継卿記』の作者である山科言継は「言葉がない。前代未聞の儀」と書き残しています。天皇・公家側にもかなりの激震が走ったようです。

義輝の死は民衆たちにも悲しまれました。永禄10年(1567年)2月には追善のための六斎念仏がおこなわれ、7.8万人の群衆が義輝の死を悼んでいます。

ちなみに、永禄の変の黒幕は松永久秀という説や、足利義輝を殺したのは久秀だった!という説があります。こちらは江戸時代中期に書かれた軍談書『常山紀談』の内容がもとになった説ですが、永禄の変の発生当時、久秀は大和国(奈良県)におり、永禄の変には参加していません。

永禄の変後の三好三人衆と松永久秀・久通

永禄の変後、三好三人衆と松永久秀・久通との間に対立が起こります。三好三人衆は足利義輝の後釜として、当初の計画通り足利義栄(後の14代将軍)を擁立。一方、松永久秀・久通は足利義輝の弟で出家していた一条院門跡の覚慶(後の15代将軍足利義昭)を幽閉するかたちで押さえていました。殺害しなかった理由としては何らかの手駒として利用できると考えていたからでしょうか。その後、久秀は細川藤孝ら幕臣の調略を受け入れ、覚慶を逃がします。三好三人衆はこれを攻めて久秀を排除しようと動き、両者の間で権力闘争が起こります。

その後、三好三人衆についていた三好義継が久秀に寝返り、永禄10年(1567年)には東大寺が焼失する原因となった「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。両者は畿内の各地で衝突を繰り返すことになります。

そんななか、義栄と覚慶の間で将軍跡継ぎ争いが勃発。朝廷は「先に上洛したほうが将軍になる」と宣言しますがごたごたのあまり上洛は果たせません。そこで財政難の朝廷は先に100貫献金したほうを将軍に据えることを決定。結果として義栄が14代目の将軍に就任しました。とはいえ情勢が不安定なままなので、上洛はできていません。

一方、久秀は織田信長に接近。覚慶も庇護を受けていた朝倉義景が動かないことから見限り、信長と手を組みます。そして永禄11年(1568年)、義昭と信長は上洛戦に臨みます。信長は三好氏ら敵対勢力をなぎ倒しつつ京に向かい、見事上洛に成功。義昭は10月18日、15代将軍に就任するのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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