三河一向一揆(1/2)家臣団分裂!家康大ピンチ
三河一向一揆
関ヶ原の戦いに勝利して天下を統一するまで、徳川家康にはさまざまな危機が訪れました。その生涯における3つの危機として挙げられるのが三方ヶ原の戦いと神君伊賀越え。そして今回紹介する、永禄6年(1563年)秋から翌年春先まで、家康の本拠地・三河国(現在の愛知県)で起こった三河一向一揆です。一向宗の門徒たちが起こした一向一揆は織田信長もたびたび手を焼いていましたが、この時はなんと徳川家の家臣団の分裂まで招く結果となりました。若き家康最大の危機とも言われる三河一向一揆について、今回は詳しく見ていきます。
一向一揆とは?
三河一向一揆に入る前に、そもそも一向一揆とは何かを確認しておきましょう。一向一揆は、浄土真宗本願寺教団(=一向宗)の門徒たちが起こした一揆です。一揆というのは志を同じくする集団の一致団結した行動のことで、ひいては権力者に対する武力行使を伴う抵抗運動を指します。
浄土真宗は鎌倉時代初期に親鸞が開いた宗教で、簡単に言えば念仏を唱えながら阿弥陀仏をひたすら信じて浄土往生をめざす教えです。分かりやすく誰もが入信しやすい内容から、一向宗は鎌倉時代から庶民を中心に人気を集めました。そんな一向宗の人々が最初に一揆を起こしたのが文正元年(1466年)、金森(滋賀県守山市)で起きた金森合戦で、比叡山延暦寺との宗教的対立が原因でした。その後、一向宗の人々は自らの宗教的自治を守るために各地で一揆を起こすようになります。
有名なものが1488年に起こった「加賀一向一揆」。加賀国(石川県)の守護大名・富樫政親の一向宗弾圧に対抗し、約20万人の一揆勢が立ち上がったものです。そもそも政親は敵対勢力を倒すために一向宗の手を借りて守護大名につきました。ところが一向宗の勢力拡大に危機感を抱き、今度は一向宗を弾圧する側に回ったのです。加賀一向一揆の結果、政親は一向宗に追い詰められて自害。そして加賀一向一揆は天正8年(1580年)に信長に滅ぼされるまで約100年、加賀国を治め続けました。なんと幕府の徴税の際も一向一揆の許可が必要だったとのこと。このため加賀は「百姓の持ちたる国」とまで呼ばれるようになったのです。
一向衆には武士から農民まで幅広い門徒がおり、莫大な兵力を有していました。さらに阿弥陀仏を信じれば極楽浄土に行けるわけですから、戦の際は死を恐れず突撃してくるため、戦国武将にとっては嫌な戦相手でした。織田信長が石山本願寺と争った石山合戦の際も、信長は一向宗門徒に大苦戦しています。石山合戦はなかなか決着がつかず、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで約11年続きました。
そんな一向宗ですが、三河では鎌倉時代から信じられてきており、親鸞も三河に立ち寄り布教しています。室町時代には一向宗中興の祖・本願寺八世の蓮如が西三河強化の中心地として土呂(愛知県岡崎市)に本宗寺を建立。一向宗はその分かりやすさもあり、みるみるうちに門徒を増やしていきます。
戦国時代には三河の一向宗は本宗寺に加え、本證寺(愛知県安城市)、勝鬘寺、上宮寺(両方とも愛知県岡崎市)による「三河三ヵ寺」が門徒たちを取りまとめるようになっていました。この一向宗門徒の中には家康の家臣達も多く所属しており、そのため一揆の際は家臣団の中から離反者が出ています。
三河一向一揆①一揆はなぜ起きた?
三河一向一揆が起きた永禄6年(1563年)といえば、徳川家康(当時は松平家康)はまだ22歳の若者。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ったことを契機に今川氏から独立し、信長と清洲同盟を結び、三河国の統一を目指して動き出していました。
そんな中、家康と一向宗の寺院の間で、寺院の持つ「不入権」を巡ってのトラブルが発生します。不入権というのは領主の介入を拒否出来る権利で、年貢や諸役の免除、警察不介入などを指します。家康の父・松平広忠が本宗寺や三河三ヵ寺といった一向宗の寺院に与えていましたが、三河統一をめざす家康にとっては邪魔者以外の何物ではありませんでした。
三河一向一揆の原因となった不入権をめぐるトラブルについては諸説あります。実は三河一向一揆については当時の資料がほぼ残っておらず、江戸時代に入ってからの資料に頼らざるを得ないため、正確なことがよくわかっていないのです。
江戸時代初期に書かれた『三河物語』によれば、永禄5年(1562年)に本證寺に無法者が侵入し、家康の家臣の酒井正親がこれを捕縛。本證寺は不入権を侵害されたことに怒りを覚えて一揆につながったとのことです。『松平紀』などには家康の家臣が上宮寺から無理やり米を取り立てたことが原因との記述があります。このほか、家康が寺院の有する水運や商業への介入を狙ったことがきっかけになったとの説もあり、三河一向一揆の原因ははっきりと特定されていません。とはいえ、三河統一を進める家康は物資調達に力を入れており、寺からの年貢徴収を視野に入れて動いていたようですから、家康サイドから何らかの動きがあったことは確かのようです。
三河一向一揆②徳川家臣団の分裂
三河の一向宗は徳川家康のこうした行動に怒り、蜂起の準備を進めます。本證寺の第十代・空誓が中心になり、3寺の門徒を召集。数千ともいえる一揆勢が集まりました。その中には家臣団の武将達もおり、後の徳川十六神将の渡辺守綱と蜂屋貞次、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって戦死する夏目吉信、家康の祖父の代から松平家に仕え、家康の重臣中の重臣として知られる本多正信の姿もありました。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。