清洲同盟(2/2)織田信長と徳川家康、約20年続いた同盟

清洲同盟

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
清洲同盟(1562年)
場所
愛知県
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清洲城

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関係する人物

信長と家康の関係を当時の書状のやり取りから考察すると、両者の関係が崩れたのは天正2年(1574年)前後だったようで、そのころには家康は信長の配下になっています。『信長公記』によれば天正3年(1575年)5月の「長篠の戦い(信長・家康VS武田)」では、信長は家康に援軍を派遣していますが、その際、家康が「国衆」すなわち信長の領国内の領主としてみなされていたとの記述があります。信長が部下を助けたということで、この時点では信長と家康との間に主従関係が生まれていたことがわかります。

同盟破棄の危機?信康事件

家康が信長の元に下ったとはいえ比較的穏便に続いていた清洲同盟ですが、大きな危機が訪れます。それが天正7年(1579年)に起きた「信康事件」と呼ばれる、徳川家康の妻・築山殿の処罰と嫡男・松平信康の切腹事件です。『三河物語』などによれば、当時信康と徳姫の仲はあまりよいものではありませんでした。原因としては徳姫が生んだ子供が2人続けて女児だったことで信康がそれを非難したからとも、信康の性格が荒々しく残虐で徳姫が嫌ったからとも言われています。また、築山殿が息子と嫁の仲を裂こうとしていたことも一因だったとか。二人の関係を危惧した家康が、仲を改善しようと岡崎城を訪問したことが当時の史料(日記)からも分かっています。

そうした状況下で徳姫は信長に対し、信康の不行跡を記した十二か条からなる手紙を送ります。手紙には信康が鷹狩の際に僧侶を縊り殺したり、踊りの下手な踊り子を弓矢で殺したりといった、目に余る乱暴なふるまいをしていることが記されていました。

信長は築山殿に激怒するとともに、手紙を託された使者の酒井忠次に信康の行状について質問。忠次は信康をかばわず十か条まで肯定したことから、信長は「そういう状態では先が思いやられる」と家康に息子の切腹を命じたというものです。

これを受けた家康は天正7年8月3日に岡崎城を訪問します。その際信康と激しい口論があったようですが、翌日信康は大浜城(愛知県碧海市)に移されます。8月9日には堀江城(静岡県西区)に、その後は二俣城(静岡県浜松市天竜区)に移動。9月15日、家康はついに信康に切腹を命じます。こうして信康は21歳の若さでこの世を去るのでした。なお、築山殿は8月29日時点で家康の家臣に殺害されています。

以上が通説として広く知られている内容です。なぜ築山殿が出てくるの?と思う方もいらっしゃるかと思いますが、築山殿は今川義元の重臣の娘で義元の姪にあたります。家康は今川氏と決別していたことから、築山殿は家康の正室とは言え家中での扱いは良くなかったようです。そもそも正室にもかかかわらず、家康のいる本拠地の浜松城でなく、信康とともに岡崎城に残されていましたし、家康は次々に側室を迎えています。こうした家康の行動を築山殿は不満に思っていました。その不満が信康と徳姫に向いたとも言われています。

さて、信康事件については、なぜ信康が切腹する羽目になったのかはっきりとわかっていません。その要因としては、以下の3つの説があげられています。

(1)謀反説:築山殿が信康を引き込み、武田側について家康に反逆しようとした、というもの。また、家臣団の対立の結果、岡崎の家臣たちが家康への対抗馬として信康を担ぎ上げ、争った結果敗れたという説もあります。なお、家康は8月10日に岡崎城に家臣たちを集めて、今後信康と関わらないよう誓わせるとともに、岡崎城に直属の兵を置いて謀反を防止しており、この家康の行動が謀反説の論拠の1つとなっています。

(2)謀略説:武田氏が「信康が裏切った」という説を流し、家康と信康の仲を壊そうとしたというもの。徳川氏に対して武田氏が仕組んだ計略だったというわけです。

(3)冤罪説:酒井忠次の讒言、または信長が息子の織田信忠と信康を比較し、信康の台頭を恐れて今のうちに排除しておこうと思ったというもの。

近年では嫡子の切腹という結果まで発展したことも踏まえ、謀反説が有力視されています。

清洲同盟の終焉~本能寺の変

その後、徳川家康は織田信長に家臣として仕え続けます。1582年(天正10年)、信長は甲州征伐を実施し、ついに武田氏を滅ぼしました。この際徳川家康は穴山信君を調略し、駿河制圧に成功しています。この恩賞として、家康は駿河一国を手に入れました。

そして同年5月15日、家康は駿河国を得たお礼を述べるため、信長のいる安土城を訪ねます。そして明智光秀の饗応を受けた後、少人数のお供を連れて堺(大阪府)を遊覧していました。そんななか、6月2日に京で本能寺の変が発生し、信長が討たれます。こうして清洲同盟は信長の死によって終焉を迎えるのです。

なお、信長の死を知った家康は、わずかな兵しかない状態で光秀に攻められないようにするため、伊賀を通過して急ぎ自国の三河国(静岡県)に戻ります。伊賀の忍者たちの助力による成功した「神君伊賀越え」として知られるこの行動により、家康は生き延びました。その後、豊臣秀吉が光秀を討ちますが、信長が治めていた旧武田領を巡って徳川・上杉・北条の三つ巴の戦「天正壬午の乱」が発生。その結果、家康は甲斐国と信濃国を手にし、既存の領地である三河・遠江、駿河を加えると計5ヶ国を支配するまで勢力を伸ばしました。

その後、秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を下して台頭。家康は「小牧・長久手の戦い」で秀吉と対峙します。その後、秀吉が着々と勢力を広げたことなどを受け、天正14年(1586年)、家康は秀吉に臣従を誓いました。その後、家康が天下人になるには、秀吉の死後の慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いまで待つことになります。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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