清洲同盟(1/2)織田信長と徳川家康、約20年続いた同盟

清洲同盟

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事件簿
事件名
清洲同盟(1562年)
場所
愛知県
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清洲城

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織田信長と徳川家康は乱世の戦国時代にもかかわらず、長きにわたって良好な関係を築いていたことで知られています。その象徴ともいえるのが、永禄5年(1562年)に両者の間で締結された「清洲同盟」です。織徳同盟ともよばれるこの同盟は、戦国時代には珍しいことに、信長が本能寺の変で死ぬまで20年にわたって続きました。そんな清洲同盟とはいったいどんなものだったのか。そもそもどうして信長と家康は同盟を結んだのか。詳しくみていきます。

信長と家康の関係は「幼馴染」

戦国時代の代表的な人物である織田信長と徳川家康。そんな二人は子供の頃からの知り合い、いわば幼馴染のような関係だったと言われています。家康は天文11年(1543年)12月26日、岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれました。松平氏は三河国(現愛知県中・東部)の土豪で、当時は今川義元の家臣だったので織田家とは敵対していました。天文14年(1545年)、信長の父・織田信秀が三河国に侵攻してきたため今川氏に助力を願い出ますが、この際、今川氏から人質を出すように要請されます。このため家康(当時は竹千代)は人質として駿府(静岡県中部)に送られることになりました。ところが途中に立ち寄った田原城(愛知県田原市)で家臣の裏切りにあい、その結果家康は敵の信秀の元に送られてしまいます。

息子を人質に取られた松平広忠でしたが、織田氏に下ることなく今川氏に仕え続けました。また、近年では実は広忠は織田氏に降伏しており、人質として家康を差し出したという説も出てきています。家康は約2年に渡り、尾張国・熱田(愛知県名古屋市熱田区)にある加藤順盛の屋敷で生活。この時、家康は少年時代の織田信長と出会い、幼馴染として過ごしたという話が伝わっています。まだ若い二人ですから、当時の史料などによるはっきりとした証拠は残されていませんが、順盛と信秀の間に交流があったことは明らかですし、二人が顔を合わせる機会はあったことでしょう。

その後、家康は天文18年(1549年)、三河国の安祥城(愛知県安城市)を守護していた織田信長の異母兄・織田信広が今川軍に敗れて捕虜となったことをうけ、信広と人質交換という形で駿府に移動。天文24年(1555年)に駿府で元服し、今川義元の姪にあたる瀬名(後の築山殿)を娶ります。こうして家康(当時は元康)は義元の配下として暮らしていくことになります。

桶狭間の戦いを契機に家康が独立

天文21年(1552年)(天文20年説など諸説あり)、今川義元と三河を争っていた織田信秀が死亡し、跡目争いを制した織田信長が跡を継ぎました。その直後から信長と義元との小競り合いが勃発。そして永禄3年(1560年)5月、信長と義元が激突する桶狭間の戦いが起こります。

ちなみにこの際、徳川家康は今川軍の先発隊として戦に参加し、今川軍の一大拠点・大高城(愛知県名古屋市緑区)に兵糧を運び込むという大役を果たしています。ただし家康は5月19日の決戦には参加しておらず、大高城の守りについていました。義元が討たれたことを夕方に知った家康は急いで三河に逃げ延びます。途中、菩提寺である大樹寺に到着した際は自害も考えたようですが、部下に諫められて取りやめました。そして、今川軍が岡崎城から撤退したことを受け、5月23日、約10年半ぶりに本拠地であり、生誕の地でもある岡崎城(愛知県岡崎市)に入城します。

その後、家康は岡崎城を拠点に西三河制圧に動き出します。さらには東三河にも手を伸ばし、義元の後を継いだ今川氏真と敵対していきます。こうしたなか、家康は東の遠江国(静岡県西部)・駿河国を治める今川氏と戦って三河を得るために、西の隣国・尾張国の信長と手を結ぶことを決意します。一方、信長としても美濃(岐阜県)方面への進出を考えており、斎藤氏と交戦中だったため、家康とは敵対したくないところ。こうして以前は敵対していた両者は同盟を締結することになったのです。

「清洲同盟」の名称は誤り?同盟が結ばれたのはいつ?

清洲同盟がいつ結ばれたのかについてはさまざまな説があります。これまでの通説によれば、桶狭間の戦い後、徳川家康は織田信長としばらく戦った後、今川氏真と共に織田氏と敵対するも、氏康が動かないことに失望。信長側の申し出を受けて和睦を決め、永禄5年(1562年)に信長と家康が清洲城(愛知県清須市)で会見し、両者の領土協定を含む攻守同盟が締結します。結んだ場所にちなみ、同盟は「清洲同盟」と呼ばれています。

ところが現在では、この通説を否定する説が有力視されています。それが「清洲城での会見はなかった」「攻守同盟はなかった」という説です。理由としては、清洲城での会見や同盟について、『信長公記』『三河物語』『松平記』といった信ぴょう性が高いとされる史料に記述がないためです。さらに、永禄5年といえば、家康が東三河で今川氏と戦っている最中。そんな時期にわざわざ信長のいる清洲城まで行く暇はないはずです。こうした論拠から清洲城での会見は江戸時代に入ってからの軍記物などによる架空のストーリーであるとみなされています。

また、攻守同盟については、家康が信長に援軍を送ったのが約7年後の永禄11年(1568年)9月の信長上洛の時までないこと、それまでは信長も家康もそれぞれの利益に基づき別々の動きをしていることなどから、攻守同盟はなかったという説が有力。領土の境界線を決定し、相互不可侵にする内容のものだったのではと推察されています。そもそも同盟自体が江戸時代に入ってから徳川幕府が創作したものだった、という説まであります。

また、清洲同盟が結ばれた時期についても通説以外に諸説あります。

(1)永禄4年(1561年)2月に家康の伯父・水野信元が仲介し、締結される
→同年4月から西三河で徳川氏と今川氏との戦が始まっており、家康としては信長と和睦しない状態ではこうした戦いができないことから
(2)桶狭間の戦い直後、永禄3年(1560年)中に締結
→桶狭間の戦いの後に家康が織田氏と争っていたという説は誤りであり、すぐに今川氏と敵対していた、という説に基づくもの

家康がいつ今川氏から独立・敵対していたのかにより、大きく2つの説に分かれているようです。

その後、永禄6年(1563年)3月には家康の嫡男・竹千代(松平信康)と信長の娘・五徳(徳姫)が婚約を結び、両者の結びつきをさらに強めています。ちなみにこの2人は永禄10年(1567年)に結婚。当初は夫婦仲が良かったようですが、果たして…?

対等な同盟から信長有利の同盟へ

清洲同盟を結んだ当初、織田信長と徳川家康は対等な立場にありました。ところがこの対等な関係は徐々に崩れていきます。時代が下るにつれ、信長の勢力は大きく拡大。一方の家康といえば、三河国は統一しましたが、元亀3年12月(1573年1月)の「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に惨敗して大打撃を受けています。そんな中、元亀4年(1573年)7月に信長は足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上滅亡します。この追放劇により信長の権力はさらに拡大していきます。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。