清洲会議(2/2)信長の後継者が決まった会議

清洲会議

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事件簿
事件名
清洲会議(1582年)
場所
愛知県
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清洲城

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しかし、この説は江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』など後世の二次資料で出てきたもので、時勢柄秀吉に有利に書かれています。現在では清洲会議当時の資料をもとに「織田家の家督を三法師が継ぐのはほぼ決定していた」という説が出されており、有力視されています。なお、当時の資料によれば、秀吉は丹羽長秀や池田恒興に「希望の遺領を渡すから三法師を後継者にするように」としっかり根回しをしていたようです。信長の敵を討った秀吉の発言権は強く、2人とも秀吉に従っています。

では清洲会議では何でもめたのか。当時の資料によれば、三法師が成人するまで、誰が名代を務めるかで織田信雄と信孝が争ったようです。両方とも一歩も譲らずに決着がつかなかったため、結局名代は設置されないまま会議は終了しました。

こうして後継者は三法師に決まり、宿老たち全員が執権して彼を補佐する、という体制が決定。三法師の「後見人」に信雄、信孝が就任(信孝のみという説も)しました。傅役には堀秀政が選ばれています。ちなみにこの堀秀政、豊臣秀吉とともに中国地方に向かい、山崎の戦いでも先鋒として活躍した、秀吉よりの人物です。また、三法師は火事の被害に遭った安土城が再建されるまで、信孝が岐阜城で預かることになりました。

清洲会議③領地の再配分

清洲会議のもう一つの争点となったのが、領地の再配分でした。領地の大小は武将の地位を内外に示す重要なポイントになるだけあって、領地の配分は非常に重視されていました。清洲会議では参加者以外の大名達にも領地は分配されていますが、ここでは参加者とその関係者に絞って紹介します。

<織田家>
  • 織田信雄:尾張国(愛知県西部)と清洲城
  • 織田信孝:美濃国(岐阜県南部など)と岐阜城
  • 三法師:近江国坂田郡の2万5000石と安土城を相続
  • 羽柴秀勝(4男):明智光秀の旧領・丹波国(京都府中部・兵庫県北東部など)
<家臣>
  • 柴田勝家:越後国(福井県)安堵、秀吉の領地だった長浜城と北近江3郡(滋賀県長浜市、米原市、彦根市)を得て甥の柴田勝豊に渡す、結果12万石の加増
  • 豊臣秀吉:北近江3郡が減封も、河内国(大阪府)、山城国(京都府南部)、丹波国(京都府中部・兵庫県北部)の3国を得て28万石の加増
  • 丹羽長秀:若狭国(福井県西部)を安堵、近江国坂田郡を減封も近江国の2郡を得て15万石を加増
  • 池田恒興:摂津国3郡(大阪府北中部・兵庫県南東部)を経て15万石の加増
  • 堀秀政:近江国内20万石と佐和山城

秀吉の領土は信長の四男で養子に当たる羽柴秀勝の者と合わせると、柴田勝家の領土よりも広くなります。さらに秀吉は拠点だった長浜城と北近江を失ったものの、京とその近郊を押さえることができました。これ以降秀吉の発言力は強まっていくことになります。

一方、筆頭家老の勝家ですが、権力はやや衰えたといえ、交通の要所である長浜城をゲット。信長の妹であるお市の方との再婚も決まりました。これは秀吉が勧めたもので、勝家の不満を押さえる策だったようですが、「信長の妹」というキーパーソンを妻にした勝家は引き続き秀吉に対抗していくことになります。

清洲会議の結果、秀吉と勝家の争いが激化

清洲会議によりその勢力を拡大した豊臣秀吉。会議の後はライバル・柴田勝家と権力争いを繰り広げます。秀吉は清洲会議でもタッグを組んだ丹波長秀や池田恒興に加え、上杉景勝などを味方にしたほか、傅役の堀秀政も取り込みました。一方の勝家は織田信孝や滝川一益、長曾我部元親や前田利家などを味方につけました。こうして織田家内は2つに分かれて争うことになります。

秀吉は10月15日から17日にかけて、羽柴秀勝を喪主に据え、京都の大徳寺で信長の葬儀を大々的におこないました。自らが信長の後継者であることをアピールする作戦でしたが、これに勝家は怒りました。秀吉が勝家に相談することなく葬儀を断行したからです。しかも当時勝家は雪深い越後国(新潟県)・北ノ庄城におり、なかなか移動ができませんでした。なお、この葬儀には織田信雄も織田信孝も不参加。当時、2名は尾張と美濃の国境決めで揉めており、それどころではなかったようです。

また、勝家は秀吉が織田家の武将達と私的に同盟を結んでいる動きを見て、これを批判。一方の秀吉は勝家方の信孝が安土城に三法師を戻さずに囲い込んでいると非難。相互にけなし合います。一度は勝家側の申し出で和睦を結びますが、秀吉は12月には和睦を破棄して長浜城を攻め、岐阜城の信孝を降伏させます。

これに対し、天正11年(1583年)1月、勝家方の滝川一益が挙兵して秀吉方の城を落とし、伊勢国桑名郡(三重県桑名市)の長島城に籠城して戦に備えます。こうしてお互いの対立が深まる中、ついに天正11年4月、秀吉と勝家が近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で戦います。これが「賤ヶ岳の戦い」です。賤ヶ岳での激戦を制したのは秀吉で、勝家は北ノ庄城でお市の方と自害しました。この戦いにより秀吉は織田家一の権力者にのし上がり、その後本格的に天下統一に乗り出していくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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