清洲会議(1/2)信長の後継者が決まった会議
清洲会議
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。さらに嫡男の織田信忠も乱の中で自刃してしまい、信長の後継者がいなくなってしまいました。そこで6月27日、後継者を決めるために清洲城(現愛知県清須市)で開催された会議が「清洲会議」です。この会議をきっかけに織田家筆頭家老だった柴田勝家の力が削がれ、豊臣秀吉が躍進し、天下人への一歩を踏み出しました。ドラマや映画で幾度も取り上げられた有名な会議ですが、実は記録があまりなく詳細はよくわかっていません。今回はそんな歴史の転換点ともいえる清洲会議について見ていきます。
本能寺の変で信長が討たれる
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が起こした謀反により、織田信長は京都・本能寺で自害しました。そして、本能寺の近くにある妙覚寺に泊まっていた、信長の嫡男で織田家当主の織田信忠は本能寺に救援に向かうも間に合わず、二条新御所に籠城。明智軍が攻めてくるともはやこれまでと自刃してしまいます。
この「本能寺の変」の知らせを聞いた武将たちはそれぞれ明智光秀を討伐しようと動き始めますが、相対する敵の妨害や距離的な問題などがその前に立ちはだかります。そんななか、当時対毛利・中国攻めの最中だった豊臣秀吉(※当時は羽柴秀吉)は迅速な動きを見せます。本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中高松城(岡山県岡山市)を攻略しているところでした。参謀の黒田官兵衛とともに水攻めをおこない、勝利は目前といったときに本能寺の変の発生を知ります。光秀から毛利方への使者をとらえたところ、使者は信長の死を知らせる密書を持っていたのです。
動揺を隠せない秀吉に対し、官兵衛は「光秀を討てば秀吉が天下を取ることができる」と進言。秀吉は毛利方に信長の死を伏せたまま和睦し、急いで京都に引き返します。俗にいう「中国大返し」です。秀吉軍は約10日間で京都に到着し、6月13日の山崎の戦いで光秀軍を破りました。光秀は逃亡しますが途中で落ち武者狩りにあって死亡、または致命傷を負ったため自害しました。享年55歳(諸説あり)で、6月14日には秀吉軍に首が届いています。
こうして信長の弔い合戦は一段落しましたが、信長の後継者は決まらないままです。このため後継者と遺領の配分を決定するための会議が開かれることになりました。それが清洲城で開催された清洲会議です。なお、清洲城で会議を行った理由としては、信長が約10年住み、この城から桶狭間の戦いに出陣した、いわば信長の天下取りの「はじまりの城」的存在だったからとも、信忠の嫡子・三法師の住まいだったからとも言われています。
清州会議の4人の出席者たち
清洲会議には織田家の宿老たち、柴田勝家、豊臣秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名が参加しました。柴田勝家は織田家筆頭家老として当時最も権勢を誇っていた人物。勇猛果敢な戦上手として知られており、清洲会議のころは60歳で、他の武将達よりも一回り以上年齢が上でした。丹羽長秀は勝家と共に「織田家の双璧」と言われた戦上手です。さらにこの2人は明智光秀、滝川一益と並び、織田家四天王としても知られていました。
池田恒興は他の3人よりも格下ですが、信長の乳従兄弟で、なおかつ山崎の戦いの際、秀吉軍に参加し先鋒を務めていたことなどが考慮され、出席することになりました。秀吉と縁戚関係にあったことなどから、秀吉が自分の味方にするために会議に参加させたという説もあります。
なお、滝川一益は本能寺の変直後に武蔵国賀美郡(埼玉県児玉郡)で起きた神流川の戦いで、北条氏直・氏邦軍に惨敗。本能寺の変を知った北条氏が隙を見て勢力拡大を狙った戦に一益は敗れ、清洲会議のころは伊勢に敗走中でした。このため会議に間に合わなかったとも、そもそも戦に負けた一益は会議に呼ばれなかったとも言われています。会議に不参加だった理由ははっきりしませんが、いずれにせよ重要な会議に参加できなかった一益は織田家内での地位を大きく失墜させることになります。
清洲会議①信長の後継者は誰?
清洲会議の争点の1つが、織田信長の後継者を誰にするかでした。この時点で後継者として目されていたのは、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝、そして亡くなった織田信忠の嫡子でまだ2歳(数えで3歳)だった三法師(織田秀信)でした。
このうち次男の織田信雄は、本来であれば後継者の有力候補となる人物です。ところが天正7年(1579年)、信雄は信長に無断で伊賀国(三重県)に攻め入って大敗(第一次天正伊賀の乱)。重臣の柘植保重はこのとき討ち死にしてしまいました。これに激怒した信長は信雄に折檻状を送って信雄を厳しく叱責。「親子の縁を切るぞ」と脅しています。その後、信雄は信長の許可を得て伊賀を攻めて平定していますが、織田家内で信雄の評価は決して高いものではありませんでした。
ちなみに、信雄は本能寺の変発生時点では伊勢にいました。その後、近江国甲賀郡土山(滋賀県甲賀市)まで進軍したものの、兵が少なく、伊賀で不穏な動きも出始めていたことなどから明智光秀とは戦わずに撤退してしまいます。その後、一時期光秀方の手にあった安土城を接収しようと向かいますが、6月15日に安土城の天守が炎上し、城は炎に沈むことになります。犯人は現在まで分かっていませんが、ルイス・フロイスはこの放火の犯人を信雄とし、「(信雄は)普通より知恵が劣っていたので」城を燃やすように命じたと記録に残しています。信雄が安土城を燃やす必要性はないので犯人ではないかとは思いますが、当時信雄が周りからどう見られていたかを推し量ることができる記述ですね。
一方、三男の織田信孝は利発な人物として評価されていたようで、ルイス・フロイスも思慮深く勇敢で礼儀正しい人物として絶賛しています。ただし、信孝はキリスト教に好意的だったので、だいぶバイアスがかかっているかもしれませんが…。また、文献には実は信孝は信雄よりも約20日早く生まれており、本当は次男だったが母親の身分が低かったため三男になったという記述も残されています。
本能寺の変の際は、四国の長曾我部元親を討つための準備のために堺(大阪府堺市)近郊にいました。信長死去の知らせを受けて兵たちの大半が逃亡したため、こちらも残るは寡兵のみ。しばらく守りを固めていましたが、中国大返しで戻ってきた秀吉軍に合流し、山崎の戦いではともに光秀を攻めています。
残る三法師はまだ幼児。とはいえ信長の跡継ぎだった織田信忠の嫡子ですから、家督をつぐ正当性はありました。
なお、後継者候補の3名はいずれも清洲会議には出席していません。代わりに同盟相手の徳川家康を加えた3人が4名の参加者の決定に従うという誓紙を交わした上で会議は開催されています。
清洲会議②「後継者は三法師」は決定事項だった?
清洲会議での争点となった信長の跡継ぎ問題。これまでの通説では、柴田勝家が織田信孝を、豊臣秀吉が三法師をそれぞれ推挙。秀吉が根回しして丹羽長秀と池田恒興を味方につけ、2人が勝家を説得し、最終的に勝家が折れて後継者は三法師に決まった、ということになっていました。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。