関ヶ原の戦い(2/2)天下分け目の戦〜きっかけ・まとめ・その後とは?
関ヶ原の戦い
関ヶ原は小高い山々に囲まれた交通の要所で、中山道や北国街道、伊勢街道の分岐点として戦略的に重要な場所でした。関ヶ原を西軍が押さえれば、東軍は京都や大阪に移動できなくなります。ここで戦いが起こるのは必然でした。
さて、関ヶ原の戦いに入る前に、西軍と東軍の武将たちについて整理しておきます。
- 【西軍】
- 約8万4000~1万※諸説あり
総大将:毛利輝元
石田三成、毛利秀元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、島津義弘、小早川秀秋など
三成はわずか19万石と国力も低く、朝鮮出兵などのごたごたもあり残念ながら人望がありませんでした。このため親友の大谷吉継は他の武将を総大将にすることを進言。結果、250万石の毛利輝元が西軍の総大将になりました。とはいえ、輝元は豊臣秀頼を守るため大坂城から動かず、実際に戦を仕切っていたのは三成です。
- 【東軍】
- 約7万4000~1万4000※諸説あり
総大将:徳川家康
黒田長政、井伊直政、福島正則、細川忠興、浅野幸長など
家康は三成と違ってコミュニケーション力が優れていました。調略も得意で、西軍にいながら東軍に内応していた武将もいました。後程説明していきます。
9月15日 関ヶ原の戦い、開戦!
関ヶ原に先に布陣したのは西軍で、9月2日には大谷吉継らが関ヶ原南西の山中村に布陣し、7日には南宮山に毛利秀元と吉川広重が布陣。14日には小早川秀秋が関ヶ原を見下ろせる松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城しました。三成は松尾山城に西軍の主力を据える考えで城を改修していましたが、同じ西軍とはいえ曖昧な動きを繰り返していた秀秋が入城したことに不安を感じ、同日大垣城を出陣。秀秋に会いに出かけましたが、結局会えませんでした。
一方の家康率いる東軍は14日に美濃大垣の赤坂に着陣し、15日の朝にかけて関ヶ原に布陣しました。この時の西軍と東軍の布陣を見ると、南宮山の毛利秀元・吉川広家らが東軍の背後におり、西軍が東軍をうまく囲む形をとっています。陣形だけ見ると西軍が有利です。
そして15日の早朝、前日の雨により発生した濃霧のなかで両軍は対峙。天候が回復した午前8時ごろ(10時とも)に戦いが始まりました。東軍の先鋒の福島正則が宇喜多秀家に戦いを仕掛けるはずが、井伊直政が福島正則のすきをつき、家康の4男である松平忠吉と宇喜多軍へと発砲して先陣を切りました。
福島軍が宇喜多軍と衝突するなか、三成のいる本陣に向けて、黒田長政たちが攻撃を開始。石田軍は重臣の島左近が迎え撃ちます。合戦の序盤は事前に準備していた西軍が有利に進んでいました。
次々と裏切る西軍の武将たち
ところが、西軍から次々と裏切り者が発生します。まず、東軍の背後を抑えていた毛利秀元や吉川広家が全く動きません。実は、広家は事前に東軍に内通していました。広家は毛利家の家臣で、「毛利家は東軍につくべき」と主張していた人物。結局、毛利輝元が西軍の総大将になりましたが、毛利家の行く末を案じた広家は黒田長政と内通し、戦場では兵を動かさないかわりに毛利家の領地は守られるという密約を交わしていたのです。南宮山の最前線に兵を置く広家が動かないため、周りの武将たちも動けません。密約を知らない秀元は出陣するよう何度も要請しましたが、広家はいろいろな言い訳を繰り返します。
そのうち秀元は近くに布陣している長曾我部元親から出陣の催促を受けましたが、部下が動かないから動けないとは言えず、苦し紛れに「兵が弁当を食べているから待ってほしい」と言い訳しました。いわゆる「宰相殿の空弁当」です。元親は「毛利は東軍についたのでは」と疑い、うかつに軍を動かせませんでした。結局、南宮山に布陣していた西軍の軍勢は動かないまま、関ヶ原の戦いは終焉を迎えます。
裏切り者たちのなかでも戦の勝敗を分けたのは、1万5000もの大軍を率いていた小早川秀秋の東軍への寝返りでした。そもそも開戦前から西軍につくか、それとも家康の誘いに乗り東軍につくか、ずっと迷っていた秀秋。合戦が開始されてからもしばらく動かず、三成の総攻撃の合図も無視していました。
そんなとき、家康が秀秋の陣に向けて「さっさと決めろ」とばかりに催促の鉄砲を撃ちます。「問鉄砲」と呼ばれる逸話ですが、こちらは後世の創作ではと疑問視されています。通説では正午ごろ裏切りを決めたことになっていますが、関ヶ原の戦い当時の資料では、開戦直後に裏切ったという記述があるためです。ちなみに裏切った理由ははっきりせず、秀秋は慶長7年(1602年)に21歳で何も語らぬまま鬼籍に入りました。
味方のはずの秀秋が東軍と戦闘中の西軍の側面から攻めこんできたわけですから、西軍は混乱しました。最も被害を受けたのは三成の親友だった大谷吉継の軍でした。吉継軍は小早川軍を一時押し返しましたが、さらに脇坂安治や朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった武将も東軍に寝返ったことで壊滅的な打撃を受け、吉継は自害に追い込まれました。
さらに小西行長軍、宇喜多秀家軍も瓦解。石田軍は引き続き戦を続けたものの、結局は敗走します。最後に残った島津義弘は戦場を離脱するため約300の兵と決死の覚悟で敵中突破を試みます。義弘を逃すために、兵士がその場にとどまり死ぬまで敵と戦って時間を稼ぐ「捨てがまり」戦法を取った結果、わずか数十名の兵とともに義弘は脱出しました。いわゆる「島津の退き口」で、負けたものの島津家の強さは全国に知れ渡りました。
こうして戦の開始から約6時間、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終結しました。
西軍の武将たちの最期
戦に敗れた西軍の武将たちはどうなったのでしょうか。まず、石田三成は関ヶ原から逃げたものの、9月21日に徳川軍に捕らえられ京都に護送され、10月1日に六条河原で斬首されています。享年41歳でした。このとき小西行長や安国寺恵瓊も斬首されています。
宇喜多秀家は島津義弘を頼って薩摩に逃げますが、結局は八丈島に流罪となり、明暦元年(1655年)に84歳で亡くなりました。関ヶ原の戦いを経験した武将としては最も長生きしています。
総大将だった毛利輝元は関ヶ原の戦い後、所領安堵を条件に大坂城から撤退。吉川広家などによる働きかけの成果もあり減封処分で済み、その後隠居の上出家しています。広家は東軍との密約もあり、当初は周防と長門の2ヶ国を加増される予定でした。しかし、本人の希望で2ヶ国とも輝元が得ています。
このほか、長宗我部盛親は改易、上杉景勝は減移封、島津義弘は薩摩国に戻った後、家康と対立するも後に交渉により本領安堵となりました。
わずか6時間で家康が勝利した関ヶ原の戦い。その裏では武将たちのさまざまな思惑が渦巻いていました。知れば知るほど興味深い関ヶ原の戦いの舞台は、現在「関ヶ原古戦場」として観光スポットになっています。各武将の陣跡を巡り、当時に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。