関ヶ原の戦い(1/2)天下分け目の戦〜きっかけ・まとめ・その後とは?

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
関ヶ原の戦い(1600年)
場所
岐阜県
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慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」が起こりました。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で激突した戦いですが、わずか6時間で東軍が勝利し、徳川家康が天下の覇権を握りました。あっさり決着がついたように見えますが、関ヶ原の戦いの裏側では政治的な駆け引きや謀略が渦巻いていました。今回はそんな関ヶ原の戦いについて細かく見ていきたいと思います。

関ヶ原の戦いはなぜ起きた?(1)豊臣秀吉の死

関ヶ原の戦いの背景を説明するには、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死までさかのぼる必要があります。秀吉は同年に病気に倒れた後遺言状を作成し、後継者にわずか6歳の豊臣秀頼を指名。自分の死後は有力大名と豊臣家の家臣による合議制を取るように遺言し、秀頼への忠誠を誓わせました。いわゆる「五大老・五奉行」制度です。五大老は徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家の有力大名5名、一方の五奉行は豊臣家子飼いの家臣たちで、政権の実務を握っていた石田三成、浅野長政、長束正家、前田玄以、増田長盛の5名を指します。

秀吉の懸念は、死後の五大老の動向でした。天下統一以前は織田信長のもとで互いに出世を争い、ときに敵対関係にあった武将たちです。自分の死後に秀頼を支えてくれるのか不安だったに違いありません。このため五大老に対して遺言状を直接送っています。ちなみに遺言状は現存するだけで3通あり、秀頼のことについては何度も言及し、手助けするよう求めています。

そもそもなぜ6歳の秀頼が跡継ぎなのか。実は秀吉の跡継ぎは何度も変わっており、秀頼の直近では姉の長男である豊臣秀次を養子にして関白に据えていました。ところが秀吉の妻の淀殿が秀頼を産んだことで状況が徐々に変化していきます。

文禄4年(1595年)に秀次は謀反の疑いがかけられ、最終的には切腹します。政治的な意見の対立による秀吉との確執、石田三成の讒言による失脚、秀吉の息子可愛さからの暗殺、など死の原因としてはさまざまな説があげられています。いずれにせよ、秀吉が病に侵された時点では秀頼を跡継ぎにするしかありませんでした。

関ヶ原の戦いはなぜ起きた?(2)徳川家康の台頭

豊臣政権ではもともと加藤清正や福島正則など軍務を担当する武断派と、石田三成など政務を担当する文治派が争っていました。よくある武官VS文官の争いですね。このほか、秀吉の朝鮮出兵の際に作戦を巡って争いがあったり、秀次切腹を主導した三成と武将たちの争いがあったりと、豊臣家内部は一枚岩ではありませんでした。

秀吉の死後、家康は武断派と文治派の対立を利用して味方を徐々に増やしていきます。家康は自分の養女と黒田長政、清正、正則の養子である福島正之を、また六男の松平忠輝と伊達政宗の長女を他の大名に無断で縁組させ、それぞれとの関係を強化しました。ただし、豊臣政権では他の大名の許可を得ない縁組は禁止されています。三成をはじめとした五奉行は怒りを募らせたことでしょう。

こうした対立を抑えていたのが秀吉からの信頼が厚かった前田利家です。ルール違反をした家康を弾劾しつつもうまく和解してその台頭を抑えるなど、「お目付け役」的なポジションでバランスを取りながら合議制を進めていきました。しかし、利家は慶長4年(1599年)、秀吉の死後1年もたたないうちに死んでしまいます。

そのため、派閥抗争はさらに激化しました。三成は利家の死の直後、朝鮮出兵の際の恨みなどを理由に加藤清正・福島正則・黒田長政など7将から襲撃されます。三成は佐竹義宣の協力により、伏見城に逃れました。

三成は朝鮮出兵では日本国内での後方支援を担当していました。ところが朝鮮に出兵中の武将たちから戦略変更の申し出があった際、秀吉に取次し、その結果秀吉が激怒して提案した大名が所領の一部没収などの処分を受ける事件が発生。秀吉に三成が意見したせいだと考えた武将が三成を恨むようになりました。また、秀吉の死を朝鮮にいる武将に伝えなかったことも恨まれる一因だったようです。

そもそも三成は頭がきれるものの人とのコミュニケーションが下手で、武将たちからは嫌われていました。三成は襲撃事件を機に、奉行職を解かれて近江国(滋賀県)の佐和山城に蟄居させられることになります。

また、同年には利家の後を継いで五大老になった前田利長による家康暗殺疑惑が浮上します。これにより、家康の号令により「加賀征伐」が開始。前田家の決死の弁明により戦は起こりませんでしたが、利長は母親のまつを人質に取られてしまい、家康に下りました。
さらに五奉行の浅野長政もこの時失脚し、「五奉行・五大老」は「四大老・三奉行」となり、家康はより権力を強めました。その後、家康は秀吉の遺言に逆らって大坂城に入場し、独断で大名に加増や転封を実施して味方を増やしていきます。

関ヶ原の戦いはなぜ起きた?(3)挑発的な「直江状」

家康が政治的な影響力を強めていくなか、同じ五大老の上杉景勝は軍事力の増強に乗り出します。このため、家康と景勝の関係は徐々に悪化。慶長5年(1600年)春には家康が景勝に謀反の疑いをかけ、6月上旬に疑いを晴らすために上洛するよう要求します。景勝は謀反の疑いを弁明するとともに秋に上洛する旨を伝えますが受け入れられませんでした。これが関ヶ原の戦いのきっかけとなる、7月の上杉征伐(会津征伐)を招きます。

さて、ここで登場するのが、景勝の重臣である直江兼続が4月に家康に送ったとされる書簡「直江状」です。内容は謀反の疑いを否定し、上洛できない理由を説明するものですが、皮肉交じりの挑発的な内容だったため家康が激怒。上杉征伐を決心したとされています。

ドラマティックなエピソードですが、直江状には偽書説や後世の改ざん説があります。本物は現存しておらず「写し」しか残っていないこと、書簡内で使われている表現が当時のスタンダードから考えると不自然であることなどが疑いの理由です。いろいろな説があるので、興味がある人は調べてみてください。

関ヶ原の戦いはなぜ起きた?(4)上杉征伐

さて、家康は上杉征伐に向けて6月に大坂城を出発。7月には江戸城に入り、景勝のいる会津に兵を進めます。

その裏側で石田三成は反家康に向けた挙兵の準備を進めていました。7月17日には大阪に五大老の毛利輝元が到着します。輝元は領地問題で家康と敵対しており、三成をはじめとする奉行たちは自分の側につくよう働きかけていました。このとき、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行連署による家康の罪状を書き連ねた弾劾状が諸大名に送られています。家康のルール違反の周知と共に、三成たちに味方するよう呼びかけたのです。

7月19日には輝元が大坂城に入場し、西軍が出陣します。同じく五大老の宇喜多秀家や小早川秀秋なども加わり、同日から約4万の軍で家康の家臣である鳥居元忠らが在城する伏見城を攻撃。元忠は抵抗するも戦死し、伏見城は落城しました。

三成たちの挙兵を知った家康は上杉征伐を中止。下野国(栃木県)の小山上で軍議(小山評定)を行った結果、景勝対策には次男の結城秀康の軍を残し、三成たちを討伐するために西に向かうことになりました。以下、家康率いる軍を「東軍」とします。

なお、景勝は三成と通じており、東軍を挟み撃ちする作戦にあったという説もあります。事実家康は背後の景勝を恐れ、東軍サイドの最上義光と伊達政宗に景勝を押さえるよう要請しています。その後、兼続率いる上杉軍は義光・政宗軍と戦いますが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことで撤退します。

西軍・東軍に分かれた武将たち

西軍は8月に美濃国(岐阜県)を押さえた後に伊勢国(三重県)に侵攻。対する東軍は、家康自身はしばらく江戸にとどまりつつも先発隊を尾張国(愛知県)清州城に派遣します。そして家康は9月に江戸を出陣して西に向かいました。西軍は大垣城を拠点に、東軍は清州城を拠点ににらみ合います。そして9月15日、いよいよ関ヶ原でぶつかることになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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