応仁の乱(2/2)戦国時代のきっかけとなった11年の内乱
応仁の乱
足利義政といえば、当初は両軍に和睦するよう命じたものの、結局勝元に屈し、6月には東軍を支持する姿勢を見せます。将軍から軍旗を授けられ、官軍としてのお墨付きを得た東軍は、総大将・足利義視を中心に賊軍となった西軍を圧倒します。なお、義政は追放した伊勢貞親を呼び戻して復帰させています。
劣勢に立たされた西軍でしたが、ここで中国地方や北九州の一部など計7ヶ国、広域を治める守護大名の大内政弘が西軍に参加します。政弘は1万の軍と2000の船団とともに上洛。これにより西軍は勢いを盛り返しました。
10月3日には応仁の乱の中で最も激戦だったと伝わる「相国寺の戦い」が起こります。西軍が花の御所や相国寺、内裏を中心に東軍を攻めたもので、相国寺は焼き討ちにあいました。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻めきれず、双方多大な死者を出し、決着がつかないまま終了しました。なお、この戦い後、京では西軍・東軍共に大掛かりな戦は行わず、小さな衝突がメインになります。
応仁の乱③足利義視の寝返り
西軍が優勢のなか、動きを見せた人物がいます。それが東軍の総大将、足利義視です。ちょうど大内政弘が西軍に参戦する8月のタイミングで、なんと伊勢(三重県)に逃亡したのです。足利義政が伊勢貞親を復帰させたことを警戒したためでしたが、この行動に義政は失望。次第に後継者は義尚にすべきと考え始めます。
翌応仁2年(1468年)9月、義視は義政が説得したことで一度は京に戻りましたが、警戒していた貞親は政務に復帰している状態。義政は義尚寄りの姿勢になっており、細川勝元も義視に出家を進めてきます。このため義視は東軍を再び逃げ出し、比叡山を経由し、同年11月から西軍に参加しました。その後、西軍は義視を「新将軍」としてトップに据え、政治体制を構築していきます。このため東軍は足利義政の幕府、西軍は後継者争いをする二人が所属する新幕府と、幕府が二つあるよくわからない状況に陥ってしまったのでした。
そんななか、度重なる戦いにより京の市街地は焼け野原寸前まで荒れ果ててしまい、京で主導権争いをするメリットが低下。さらに戦線は各地方にも広がっており、守護大名たちが自らの領地を守るために帰ることで京の治安はさらに悪化しました。このため京での戦いは次第に落ち着いていきます。西軍で活躍していた朝倉孝景が主家の朝倉氏を裏切って東軍に寝返ったり(初の下剋上と言われる)、西軍が新たな天皇を擁立しようと画策したりといった動きはありましたが、東軍・西軍ともに「もう戦はうんざり」という風潮になっていったのです。
応仁の乱④山名宗全・細川勝元・足利義政が揃って隠居
文明4年(1472年)、はやくもぐだぐだ感が出てきた応仁の乱ですが、このころから和平交渉が始まります。さらに各軍の事実上のトップ・細川勝元と山名宗全が揃って隠居します。勝元は息子の聡明丸(のちの細川政元)を擁立した後に剃髪。一方の宗全は5月に自殺未遂事件を起こした後、家督を孫の山名政豊に譲って隠居しています。自殺未遂は戦を収束させたい、という意思の表れだったとみられます。なお、翌文明5年(1473年)3月に山名宗全が、5月に細川勝元がこの世を去っています。
文明6年(1474年)には足利義政が引退を発表。決まりかねていた後継者に義尚を選び、将軍職を譲りました。こうして第9代将軍の下で新しい政府が整い始めるなか、ついに細川政元と山名政豊の間に和睦が締結されました。
これで応仁の乱は終結か、と思いきや、畠山義就と大内政弘は戦争継続を主張します。義就は畠山政長との決着がついていないことが理由。とはいえ荒れ果てた京に居続けても仕方がないので、河内国(大阪南部)を政長から取り返そうと京を去っています。なお、畠山家の家督争いはその後も続き、文明17年(1485年)の山城国一揆で終結を迎えています。
一方、大内政弘は細川家と日明貿易で競合しており、細川家をつぶして利益を得たいところ。さらに数万の大軍を率いて上京しただけに、何の利益も得ずに帰るわけにはいきません。このため足利義視を自宅に招いて戦い続けましたが、文明8年(1476年)12月、義視と義政が和睦したことで将軍家の争いが終結しました。残された政弘はどうしたかといえば、日野富子の仲裁により領国安堵が決定し、朝廷から高い官位を与えられたことで満足して帰国しました。こうして西軍は解体され、ここで応仁の乱が収束したのでした。
応仁の乱で戦国時代がスタート?
応仁の乱は戦国時代のきっかけとしてよく知られています。以前は応仁の乱が原因で幕府が衰退し、下剋上の戦国時代がやってきた、とされていましたが、近年では応仁の乱後、幕府は一度立ち直ったという見方が有力です。事実、第9代将軍の足利義尚はなかなか実権を渡さない足利義政と対立しつつも幕府を運営。長享元年(1487年)には近江国の六角高頼を討伐するため、2万の大軍で出陣しています。
ところが義尚は長享3年(1489年)に25歳の若さで死んでしまいます。足利義視の息子・義稙が第10代将軍につきますが、義稙の時代に細川政元がクーデターを起こし、義稙の従兄である足利義澄を第11代将軍として擁立。家臣が主君を引きずり落して自分の意のままになる人物をトップに据えたこの事件をもって、戦国時代が始まるのです。
応仁の乱の記事を読みなおす
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。