応仁の乱(1/2)戦国時代のきっかけとなった11年の内乱

応仁の乱

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事件簿
事件名
応仁の乱(1467年〜1477年)
場所
京都府
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二条城

二条城

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室町時代の応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間、京都を中心に起こった内乱が応仁の乱です。途中で年号が変わったことから「応仁・文明の乱」と称されることもあります。群雄割拠の戦国時代が訪れるきっかけとなったこの戦は、守護大名・畠山家の家督争いを契機に、将軍家を二分する争いにまで発展しました。幕府の屋台骨を大きく揺らがせた戦いにより、京都は焼け野原になったとも伝わっています。今回はそんな応仁の乱について詳しく見ていきます。

応仁の乱はなぜ起きた?原因①細川勝元・山名宗全の争い

応仁の乱が起きた室町時代中期は、室町幕府が日本を支配していました。室町幕府のトップは将軍ですが、各地を治める守護大名達も強い影響力を持っていました。特に権力を有していたのが「三管四職」と呼ばれる家です。「三管」は将軍の補佐役で幕府の実質的な政治的責任者を務める管領職を交互に務める三家で、細川家、斯波家、畠山家を指します。「四職」は侍所の長官職に交互に就任する四家で、赤松家、一色家、山名家、京極家です。

このうち、応仁の乱の直前にかなりの力を持っていたのが三管・細川家の細川勝元と、四職・山名家の山名宗全でした。ちなみに勝元の正室は宗全の養女で、二人は義理の親子です。二人は当初は政治的に協力し合っていましたが、第6代将軍・足利義教を殺害したことで討伐された赤松家の再興問題での対立などを経て、次第に敵対していくことになります。以下で紹介する家督争いにもそれぞれ別の人物を支持しています。彼らが家督争いに加わることで、応仁の乱という11年も続く大戦が起こったのです。

応仁の乱はなぜ起きた?原因②畠山家の家督争い

応仁の乱のきっかけと言われているのが、畠山家の家督争いです。河内(現大阪府東部)・紀伊(和歌山県と三重県南部)・越中(富山県)・山城(京都府南部)の守護大名・畠山持国の跡継ぎを巡り、息子の畠山義就と甥の畠山政長が争いました。普通は息子が跡を継ぎそうなものですが、畠山持国はなかなか子供ができなかったので、甥を後継者に指名していたのです。

ただし、持国には遊女との間に生まれた息子(義就)がいました。とはいえ、当時はDNA鑑定などもなく、遊女の子が本当に自分の子なのかは分かりません。このため義就は寺に出されていました。ところが、持国は義就と再開して驚きます。義就が自分そっくりだったからです。持国は義就を自分の子と認め、還俗させて嫡子として後継者に定めました。

これに怒ったのは甥の政長とその支持者たちでした。こうして政長は義就と争うことになり、畠山家は分裂してしまいます。持国が死んだ後は義就が家督を継承しますが、幕府は義就でなく政長を後継者と認めます。当然義就は納得がいきません。そんな義就を支持したのが山名宗全でした。一方の政長には細川勝元がつくことに。こうして畠山家の跡目争いは勝元と宗全の争いに巻き込まれていくのでした。

加えて、前後して斯波家でも家督争いが発生します。享徳元年(1452年)、越前(福井県嶺北地方、岐阜県北西部など)・尾張(愛知県西部)・遠江(静岡県西部など)守護の斯波義健が後継者のいないまま18歳の若さで死亡。養子の斯波義敏が跡を継ぐはずでしたが重臣と対立。結果、渋川氏出身の斯波義廉が斯波家を継ぐことになります。不満に思った義敏は妻の父親だった山名宗全を頼ることになりました。この争いも応仁の乱に絡んでくることになります。

応仁の乱の原因③将軍家の後継者争い

応仁の乱の大きな原因とされるのが、8代目将軍・足利義政の跡目争いです。義政は銀閣寺の建立で知られる人物で、その正室の日野富子とともに有名です。

義政と富子の間にはなかなか世継ぎが育ちませんでした。このため、義政は出家していた弟の足利義視を還俗させて養子として迎え、第9代将軍として指名します。ちなみにこの時義視は京都天台宗浄土寺の門跡で、わざわざ還俗せずともよい暮らしができる高貴な身分でした。しかも、この先義政と富子の間に子供が生まれれば自分は邪魔になる。このため、義視は義政の依頼を断りましたが、義政が「息子が生まれても家督は継がせない」と起請文を送り、さらに後見に細川勝元がついたことで還俗を受け入れました。

ところがその後、富子が足利義尚を出産。自らの子を跡継ぎにしたいという気持ちが富子に生まれます。そこで富子は山名宗全を後見に、息子を跡継ぎにしようと各方面に働きかけました。なお、このときの後見人は山名宗全ではなく義政の親代わりを務めた側近の伊勢貞親だった、という説が近年出てきています。

こうして義視と義尚は対立していきます。しかも、跡継ぎを決めるべき義政ははっきりと跡継ぎを決めないままです。実は義政、将軍就任当初はかなり意欲的に政治にかかわっていましたが、守護大名たちとのいざこざですっかりやる気をなくしていたのです。

この義政のやる気のなさが、文正元年(1466年)夏の「文正の政変」を招きます。伊勢貞親ら義政の側近が、義視が謀反を企んでいると讒言し、義視の追放と抹殺を訴えたのです。この時は義政とその側近たちの力を削ぎたい山名宗全・細川勝元が協力して義視を守っています。義政は将軍とはいえ権力者2人に逆らえませんでした。これにより室町幕府の将軍の権威は低下。義政はさらにやる気をなくし、文化人として文化の発展に寄与していくことになるのです。

そして応仁の乱へ

畠山家と斯波家の内紛に将軍家の跡継ぎ問題が絡み合い、山名派(西軍)と細川派(東軍)の争いは徐々に激しくなってきました。文正元年(1466年)、山名宗全と組んだ畠山義就が軍を率いて京に侵入。足利義政と面会して圧力をかけた結果、文正元年(1467年)の正月、義政は義就を将軍家の邸宅、通称「花の御所」に招くとともに、政長の管領職を罷免しました。

この動きに細川勝元と畠山政長は反発し、花の御所を占領して義政に義就討伐の命令を出させようと画策しますが、失敗に終わります。その後政長は自らの屋敷に火を放ち、上御霊神社(京都府京都市上京区)に陣を敷いて徹底抗戦の構えを見せます。さらに勝元に助力を求めますが、ここで足利義政が登場。「畠山家の争いは畠山家同士で決着するように」と双方に命じたため、勝元は命令に従わざるを得ず、政長を助けませんでした。この結果、勝元は「武士の風上にも置けない」と批判されてしまいます。

山名宗全たちは、政長の動きを見るや天皇や上皇を花の御所に「避難」させたうえで御所を包囲。義政に政長や勝元を追放するよう訴えています。加えて義政の命令を無視して畠山義就に加勢しました。こうして1月18日に両者が激突し、「御霊合戦」が起こります。戦力的に不利になった政長は敗走し、勝元の屋敷に匿われることになりました。この戦いが応仁の乱がはじまるきっかけとなり、応仁元年(1467年)5月、京都府京都市の上京区を中心に、本格的な戦が始まることになるのです。

応仁の乱①「西軍」と「東軍」

応仁の乱では各派閥が「西軍」と「東軍」に分かれて戦います。ここで応仁の乱開始時の各派閥について確認しておきましょう。

<西軍>(京都の西側に集結。兵力11万とも)
山名宗全
足利義尚
畠山義就
斯波義廉
このほか一色氏、六角氏、土岐氏などの守護大名
<東軍>(京都の東側に集結。兵力16万とも)
細川勝元
足利義視
畠山政長
斯波義敏
このほか赤松氏、京極氏、若狭武田氏などの守護大名

なお、内紛中の斯波氏は分裂し、両軍についています。

応仁の乱②全面的な戦いがスタート

西軍・東軍の初めての本格的な戦いは、応仁元年(1467年)5月26日の「上京の戦い」でした。東軍の武将・武田信賢らが御所の隣にある一色義直邸を襲撃して占拠したのです。これは東軍が将軍・足利義政を味方につけるための策でした。策は成功し、細川勝元は無事に義政を「保護」します。一方の西軍は細川家一門の細川勝久の館を焼き払いました。戦の決着はつかず、双方痛み分けとなりましたが、将軍を押さえることができた東軍が有利でした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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