沖田畷の戦い(2/2)龍造寺隆信vs有馬晴信・島津家久
沖田畷の戦い
作戦のポイントは島原の北にある「沖田畷」(長崎県島原市)に陣を構えて龍造寺軍を迎え撃つこと。この「畷(なわて)」というのは田んぼと田んぼの間にある狭い道のことです。当時の沖田畷は東に浜道、西に前山がある海と山に囲まれた湿地帯で、中央部は胸までつかるほどの深い湿地と田が広がっていました。湿地帯には2、3人程度が横並びにぎりぎり通れる細い一本道があるだけ。この場所で迎え撃てば、大軍の力を削ぐことができます。そして龍造寺軍を湿地帯まで引き込んだところで、左右から別動隊が龍造寺軍を攻める。いわゆる「釣り野伏」の作戦です。
釣り野伏は島津氏のお家芸として知られる包囲作戦で、部隊を左・中央・右の3つにわけ、中央の部隊が囮として正面から敵と戦い、負けたふりをして後退。釣られて追撃してきた敵を左右の伏兵、つまり「野伏」が攻撃し、囮の軍も反転して包囲殲滅するというものです。敵よりも少ない兵力で戦うのには適した作戦でした。
これに賛同した武将たちにより、作戦は実施されることに。有馬・島津連合軍は森岳城(島原城、長崎県島原市)を本陣に置き、城の防備を固めるとともに、畷をふさぐように横に大きく大木戸や堀を設置し、龍造寺軍を迎え撃つ準備を進めました。海岸線の浜手には伊集院忠棟たち約1000の兵を配置し、新納忠元ら1000は山裾に隠れました。大木戸には龍造寺隆信に子供を殺された恨みを持つ赤星統家ら50人を置き、家久軍は森岳城の背後に控えました。
一方の龍造寺軍は、鍋島直茂が島津氏の援軍を察知し、龍造寺隆信に警戒するようと進言していましたが、2万5000の大軍を率いている隆信は耳を貸すことがありませんでした。軍事的優位に立っていたことなどから、油断が生じていたようです。慎重派な直茂は長期戦に持ち込み、島津軍が撤退した後に有馬氏を攻め滅ぼすように提案していましたが、隆信が聞き入れることはありませんでした。この進言を無視したことが、隆信の敗退につながります。
沖田畷の戦い④龍造寺隆信が討ち死に
そしていよいよ3月24日、沖田畷の戦いが始まります。寺中城(三会城、長崎県島原市)を出発した龍造寺軍は未明に沖田畷に進軍。森岳城を攻める龍造寺隆信率いる本隊、山手を攻める鍋島直茂軍、浜手を攻める江上家種・後藤家信(隆信の息子達)らの3つに軍を分けて進みます。偵察により大木戸に寡兵しかいないことを確認した龍造寺隆信はさぞかし油断したことでしょう。そのまま本隊の先陣に大木戸を攻めさせました。
大木戸の前方にいた兵たちは龍造寺軍の先陣を見て、作戦通り退却。調子に乗って追撃した龍造寺軍は徐々に湿地のなかで身動きがとれなくなります。そこを鉄砲で叩く有馬・島津連合軍。先陣は崩壊し、先陣を救うために向かう第2陣も狭い一本道をなかなかうまく進めず苦戦します。
第2陣がなかなか前進しないことを気にかけた龍造寺隆信は前線の状況を確認するため、使者として吉田清内を派遣します。ところがこの清内、隆信が命じてもいないのに前線の武将達に「命を惜しまずどんどん攻撃せよ」と触れ回ってしまうのです。前線の危機的状況を見ての勝手な判断だったの、隆信の怒りを恐れてのことだったのか、理由はよくわかっていませんが、これを聞いた龍造寺軍の武士たちはいきり立ち、前進しようと湿地帯を突き進みます。そして身動きが取れなくなって有馬・島津連合軍に次々と討ち取られてしまいました。これを見た島津家久は全軍突撃を命令。戦いは銃撃戦から刀を使った白兵戦へと変化し、かなりの激戦が繰り広げられました。
一方、浜手を進んでいた江上家種・後藤家信たちは、天草伊豆守の軍船からの砲撃にたじたじ。軍船はキリシタン大名の有馬晴信のコネをフル活用したもので、軍船には半筒砲が二門積み込まれており、アフリカのカフル人やインドのマラバル人が砲撃に参加するという国際色豊かなチームでした。この砲撃で江上家種・後藤家信は前進できず、結局敗走してしまいます。さらに連合軍は有馬軍の主力と伊集院忠棟らで浜手から本陣を攻撃。浜手周辺は敵味方入り混じっての大混戦が起こりました。なお、山手を攻めていた鍋島直茂軍は島津軍の伏兵たちと戦った結果、敗退しています。
激しい戦いが続く中、徐々に劣勢となっていく龍造寺軍。これを見た龍造寺隆信は自ら前線で指揮を取ることで戦いを勝利に導こうとします。今までの戦の経験を踏まえての策だったのでしょうが、この場合は愚策でした。島津家久の家臣・川上忠堅らの隊が、小高い場所で床机に腰掛けて戦を指揮している隆信を見つけてしまったのです。隆信は忠堅に切りかかられ、首を落とされてしまいました。享年56歳。当時隆信は太っており、移動の際は6人が担ぐ駕籠に乗っていました。このため急な攻撃に対応できなかったようです。
こうして沖田畷の戦いは島津家久の作戦がピタリとはまり、有馬・島津連合軍の勝利に終わりました。龍造寺軍は本拠地の佐賀城(佐賀県佐賀市)まで退却。鍋島直茂や江上家種などは何とか逃げ延びましたが、重臣達を多数失ったことで龍造寺氏は弱体化しました。
沖田畷の戦い⑤受け取りを拒否された隆信の首
沖田畷の戦いで首を落とされた龍造寺隆信ですが、その首はどうなったのでしょうか。首は島津家久から島津義久の元に送られた後、龍造寺氏に返される予定でした。ところが龍造寺氏は受け取りを拒否。しかも拒否したのは隆信の母・慶誾でした。この慶誾は隆信の後ろ盾的存在で、鍋島直茂を龍造寺氏に引き入れたのもこの人物。なぜ受け取りを拒否したのかは謎ですが、首は願行寺(熊本県玉名市)に埋葬されることになりました。
ちなみに、首の受け取りを拒否したのは鍋島直茂だったという説もあり、弔い合戦もしない状態で先の主君の首を受け取るのは道義に反するという理由で拒絶したとされています。なお、胴体の方は龍泰寺(佐賀市赤松町)に葬られましたが、墓はその後、別の寺に移転しています。
沖田畷の戦い後の龍造寺・有馬・島津氏
沖田畷の戦い後、龍造寺氏は従属していた国人たちが島津氏に寝返るなか、龍造寺隆信の息子・政家が祖母の慶誾とともになんとか国政を担います。島津対策として鍋島直茂を養子として迎え、勢力の立て直しを図りました。龍造寺氏は島津氏とも講和を果たしますが、豊臣秀吉と接近し、九州征伐の際は島津氏を攻めています。その後、龍造寺政家の息子・高房が家督を相続しますが、実権は直茂が握ることに。最終的には主家である龍造寺家から直茂が家督を引き継ぎ、佐賀藩は鍋島氏のものになりました。
有馬氏は九州征伐の際は豊臣方につき、関ヶ原の戦いでは東軍につくといったように、うまく情勢を見極めながら存続。有馬晴信はキリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」で切腹に追い込まれますが、息子の有馬直純は肥前日野江藩(のちの島原藩、長崎県島原周辺)の藩主となった後、日向国県藩(延岡藩、宮崎県延岡地方)に転封されています。
一方、島津氏は沖田畷の戦いにより勢力範囲を筑前・筑後(福岡県)まで拡大。九州統一に向けて進みますが、あと一歩のところで豊臣秀吉の九州征伐に敗れます。とはいえ薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵されました。その後、関ヶ原の戦いでは島津義弘が西軍につきますが、敗退の際の前進退却は「島津の退き口」として爪痕を残し、関ヶ原の戦い後も存続を許され、一族で薩摩藩を治めていくことになるのでした。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。