沖田畷の戦い(1/2)龍造寺隆信vs有馬晴信・島津家久

沖田畷の戦い

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
沖田畷の戦い(1584年)
場所
長崎県
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天正12年(1584年)3月24日、島原半島で龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍が戦ったのが、肥前島原半島(現長崎県)で起きた「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」です。有馬・島津連合軍が大軍の龍造寺軍を破って大勝利をおさめたこの戦いにより、龍造寺氏の実質的なトップだった龍造寺隆信は討ち死に。その結果、龍造寺氏は衰退していくことになります。たった1日の戦がその先の九州の歴史に大きな影響を与えたのです。今回はそんな沖田畷の戦いについて分かりやすく解説します。

沖田畷の戦い前夜の九州

戦国時代の九州では大名たちの覇権争いが続いていましたが、年号が元亀から天正に変わる1573年頃には九州北東部や豊後(大分県中南部)を大友氏が、九州北西部や肥前(佐賀県)を龍造寺氏が、南九州や薩摩(鹿児島県)を島津氏が治める三国時代が訪れていました。

その後、天正6年(1578年)に日向国高城川原(宮崎県木城町)に起きた「耳川の戦い」で島津氏が大友氏を破り、大友氏は弱体化。大友氏当主の大友宗麟は何とか生き残りましたが、大きく力を削がれました。このため、九州では力をつけた島津氏と、耳川の戦いのどさくさに紛れて大友氏の領土を得た龍造寺氏の2台巨頭が争いを繰り広げていくことになります。

沖田畷の戦いのキーパーソン・龍造寺隆信

沖田畷の戦い当時、島津氏は島津義久が義弘・歳久・家久の3名の弟と協力して国を治めていました。一方、龍造寺氏は龍造寺政家が当主を務めていましたが、その父で「肥前の熊」の異名を持ち、九州三強の一人として知られる龍造寺隆信が実権を握っていました。

龍造寺隆信は肥前国を統一し、龍造寺氏を一大勢力にのし上げた英雄的人物でしたが、同時に猜疑心が強く狡猾で冷酷な人物だったと伝わっています。家臣からの人望もあまりなかったようで、家督をついだころには家臣の反乱にあって国を追われたことがあるほどです。

そんな龍造寺隆信でしたが、天正9年(1581年)に嫡男の龍造寺政家に跡を譲って隠居します。しかし、実権はあいかわらず隆信が握り続けました。隠居後は酒や女に溺れるようになり、肥満体になるとともに暴君としての性格が強く出るようになってきました。

そんななか、天正9年、筑後国(福岡県南部)の蒲池鎮漣が島津氏に内通していたことが発覚します。蒲池氏は龍造寺隆信が家を追われた際に世話になり、何度も助けられた忠臣でしたが、隆信は許しません。鎮漣を和解のためにと言って肥前国に呼び寄せてだまし討ちにし、蒲池氏の本拠地・柳川城に向かって出陣し、一族を皆殺しにしました。隆信のこの行動には部下たちは反発し、出陣しなかった部下まで現れています。さらに天正11年(1583年)には、部下の赤星統家が命令に背いたとし、人質として預かっていた統家の息子と娘を殺害。これに怒った統家は龍造寺氏を見限って島津氏につきます。このように隆信の行動に不信感を抱き、龍造寺氏を離反する者が徐々に出てきました。

沖田畷の戦い①有馬晴信の裏切り

沖田畷の戦いのきっかけとなったのが、天正12年(1584年)3月に島原の領主・有馬晴信が龍造寺氏を離反したことです。キリシタン大名として有名な晴信ですが、当初はキリスト教とは敵対的な立場にいました。しかし天正8年(1580年)にキリスト教に改宗。イエズス会からの支援を得て軍事力をつけていきます。沖田畷の戦い直前までは龍造寺氏に臣従していましたが、島津氏に鞍替えしたのです。

有馬晴信の姉(もしくは妹)は龍造寺隆信の嫡男・政家、つまり名目上の現龍造寺家当主に嫁いでおり、両家は親族関係にありました。にもかかわらず晴信は龍造寺氏と肥後(熊本県)を巡って争っている島津氏につこうと考えたのです。理由ははっきりしませんが、龍造寺隆信の非道な行いも理由の1つだったかもしれません。なお、有馬氏の縁戚の安富純冶、純泰父子は龍造寺氏に従い続けたので、晴信は親子のいる深江城(長崎県南島原市)を攻め、島津氏もこれに協力しました。

有馬晴信の離反に激怒した龍造寺隆信は、龍造寺政家に有馬氏討伐を命じます。ところが妻の出身氏族を攻めるのが嫌だったのか、政家は消極的。このため隆信は政家に留守を任せ、自ら有馬氏討伐に2万5000(諸説あり)の大軍を率いて出陣することを決意します。隆信の右腕的存在の軍師・鍋島直茂をはじめ、周囲からは有馬攻めを止める声もありましたが、隆信は聞き入れませんでした。

沖田畷の戦い②有馬晴信、島津氏に救援要請

龍造寺氏が大軍を率いてきたのに慌てた有馬晴信は、島津軍に援軍を要請します。ところが、島津軍は龍造寺軍と肥後を巡って争っている最中で、島原に援軍を出すことは難しい状況でした。さらに筑前(福岡県)には勢力が衰えたとはいえ大友宗麟の軍勢がおり、肥後をめがけて南下してくる可能性があります。

とはいえ島原を見捨てるわけにもいきません。頼ってきた有馬晴信を見捨てることは、他の国人や部下たちの離反を招きかねないからです。さらに敵将は龍造寺隆信。このため、島津義久は末弟の島津家久を約3000(※諸説あり)の部下たちと共に島原に送ります。「武勇は鬼神の如し」と言われた新納忠元や伊集院忠棟、川上忠智など優れた精鋭たちも同行しました。

島津家久は祖父の島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた人物。彼の活躍が、沖田畷の戦いの勝敗を分けることになるのです。

沖田畷の戦い③島津家久の「釣り野伏」作戦

3月22日、島津家久率いる島津軍は、龍造寺軍に先んじて有馬晴信のいる日野江城(長崎県南島原市)に到着します。その後開かれた軍議では、龍造寺軍の兵の多さから、持久戦に持ち込んで島津軍本隊の援軍を待つ作戦が提案されました。連合軍は合わせて約5000~6000程度。兵力的な不利さから考えると当然のことで、島津軍としても当初はそのつもりで家久を派遣したのでしょう。ところが家久は積極的に打って出ることで、龍造寺軍に打撃を与えようという強気な作戦を提案します。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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