御館の乱(1/2)上杉謙信の後継者争い、景虎vs景勝

御館の乱

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
御館の乱(1578年〜1580年)
場所
新潟県
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天正6年(1578年)3月13日、「越後の龍」こと上杉謙信が春日山城(現新潟県上越市)で急死します。これにより発生した後継者争いが、天正8年(1580年)まで続いた「御館の乱(おたてのらん)」です。謙信の甥にあたる上杉景勝と、後北条家から養子に入った上杉景虎による上杉家を二分しておこった争いは、北条氏の介入を招き、結果として上杉家の力は衰退。越後国の弱体化を招きました。今回はそんな御館の乱について、分かりやすく解説していきます。

御館の乱の引き金となった上杉謙信の急死

越後国(佐渡島を除く新潟県)のカリスマ的武将と言えば上杉謙信です。武田氏や北条氏と争い・和睦を繰り返し、晩年は天正5年(1577年)9月には手取川の戦いで織田信長軍を退け、能登国(石川県北部)を手中に収めています。

そして同年12月、上杉謙信は次の遠征について計画を発表。天正6年(1578年)3月15日に関東遠征に出発するはずでしたが、3月9日に春日山城で「卒中風(脳卒中)」または「不慮の虫気(急な腹痛?)」で昏倒。4日後に病没しました。

酒好きとして知られる上杉謙信には、「酒を飲みすぎ、厠で脳卒中で倒れ、意識を失いそのまま亡くなった」という通説がありますが、当時の文献を読み解くと私室(書斎?)で何らかの病気で倒れて数日後に亡くなった、というのが実際のところのようです。

脳卒中であれば遺言は残せずそのまま死亡しているかと思いますが、虫気であれば遺言を残すことが可能。謙信の死後だいぶ後に書かれた上杉家の「謙信公御年譜」では卒中風と書かれていますが、当時の上杉景勝の書状では「不慮の虫気」が要因だったことから遺言を受け取った、と書かれています。景勝による正当化のための偽りの主張なのか、本当に遺言があったのか、現代まで続くミステリーです。

2人の後継者候補・景勝と景虎

上杉謙信には実子がなく、後継者を指名しないまま亡くなった(※前述の通り諸説あり)ため、2名の跡継ぎ候補が浮かび上がりました。それが謙信の甥っ子で養子に入った上杉景勝と、後北条家からの養子・上杉景虎です。2人の養子が御館の乱で家督を争うことになるのですが、それぞれどのような人物か見ていきましょう。

上杉景勝は弘治元年(1555年)、上田長尾家当主の長尾政景の次男として生まれました。母親は上杉謙信の異母姉。父親の死をきっかけに謙信の養子となり、上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていました。謙信は天正3年(1575年)、彼に上杉景勝の名を与えるとともに弾正少弼の官位を与えています。

一方の上杉景虎は天文23年(1554年)生まれで景勝より1歳上。もともとは北条氏康の七男で北条三郎を名乗っていたようです。北条氏と上杉氏は敵対と同盟を繰り返していますが、永禄12年(1569年)には武田信玄対策として、越相同盟を締結。同盟の条件として、北条三郎が謙信の養子に入ることになりました。そして永禄13年(1570年)、謙信の姪(実は景勝の姉)と結婚するとともに、謙信の初名である「景虎」の名を与えられています。その後、越相同盟は元亀2年(1571年)に解消されますが、謙信と景虎の養子縁組は継続されました。

謙信の「後継者」は誰だったのか?

上杉謙信は生前に後継者を明確にしていなかったため、謙信が後継者の選定をどう考えていたかは現在まで諸説あります。両名のどちらかを後継者として考えていたという説の根拠は以下の通りです。

<景勝>
  • 上杉家の中でも力を持つ上杉長尾家の出身であり、元北条家との景虎と違って生粋の上杉一族
  • 謙信から弾正少弼を譲られている
  • (景勝の主張ですが)遺言で謙信から直接後継者として指名された
<景虎>
  • 謙信から初名「景虎」をもらった
  • 妻は謙信の姪(景勝の姉妹)
  • 家臣に対して課される軍役について、景勝には課されているのに景虎には課されていない

このほか、景勝に越後国主を任せ、景虎には関東管領職などを譲る考えだったという説、越後国の軍事や外交を景勝が、文治・内政面を景虎が担当するというように、役割分担させ両名で国を担うよう考えていたという説、景虎の嫡男・道満丸が跡継ぎだったという説など、研究者によってさまざまです。

御館の乱①景勝、「遺言」をもとに後継者を宣言

それでは、上杉謙信の死後、両者はどのように動いたのでしょうか?謙信の死の翌日、景虎派の柿崎晴家が何者かにより暗殺されました。景勝の手によるものとされていますが、こちらは時期を含め詳細がはっきりしていません。

その後、景勝は3月15日に春日山城の本丸に移動して金蔵や兵器蔵などを占領。24日には謙信の「遺言」により自らが跡を継いだことを内外に書状で宣言します。そして三の丸の屋敷にいた景虎を攻撃し、武力行使により景虎を封じて当主の座につきました。その後、謙信の印判や祐筆などを掌握し、5月下旬には印判状などの公式書類を発行するに至っています。

景勝が新体制を着々と進めていこうとするなか、待ったをかけたのが会津の蘆名氏です。蘆名氏は上杉謙信の死を契機に越後国を攻めようと計画。これに気づいた神余親綱が独断で厳戒態勢を引いて迎え撃つ準備をしますが、景勝がこれをとがめて詰問。自らへの忠誠の証として誓詞を提出するように求めますが、景勝の対応に激怒した親綱は拒否しました。上杉氏のための防衛措置を疑うとは何事だ、というわけです。

この2人の争いを収めようと上杉憲政などが仲裁に乗り出しますが、両者は拒否し一向に争いは収まりません。そうこうしているうちに蘆名氏が越後侵攻を開始。このとき蘆名氏の軍は無事撃退されましたが、神余親綱の正当性がはっきりしたことにより、景勝のトップとしての評価はがた落ちになりました。この事件で親綱を筆頭にを見限る武将たちが発生し、景虎を対抗馬として担ぎ上げていくことが、御館の乱につながっていくのです。

御館の乱②各陣営の勢力図

上杉景勝と上杉景虎、それぞれについたのはどんな武将達だったのでしょうか。上杉家中を味方につけた景勝に対し、景虎の背後には北条氏や蘆名氏、伊達氏といった外部勢力の力も存在しており、当初は景虎方が優位でした。詳細は以下の通りです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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