琉球侵攻(1/2)薩摩・島津氏が琉球を支配下に
琉球侵攻
慶長14年(1609年)、薩摩藩主・島津忠恒(家久)は兵を率いて琉球王国を攻めて支配下に置きました。これが「琉球侵攻」と呼ばれる事件です。島津侵入事件、島津の琉球入り、琉球出兵などと呼ばれるこの事件により、琉球王国は「王国」としての地位を保ちつつも、実質的に江戸幕府・薩摩藩の支配を受けることになるのです。今回はそんな琉球侵攻について、重要なファクターである日明貿易について触れながら、詳しく説明します。
「琉球侵攻」のターゲット・琉球王国とは
琉球侵攻を語るには、琉球王国について知っておく必要があります。14世紀ころから沖縄本島では「北山」「中山」「南山」の3王国が乱立して争っていました。これを1429年に中山王の尚巴志が統一したことで琉球王国が成立。首都を首里城に定め、貿易拠点を那覇に移しました。
そして日本本土や明(中国)、朝鮮半島やマラッカ王国など東南アジアと交易を実施。海禁政策を取っていた明とは、他のアジア諸国と同様、皇帝に貢物を送って服従の姿勢を示し、皇帝から君主と認めてもらうとともに下賜品を拝領する、冊封体制下の「朝貢貿易」を実施していました。沖縄本島では14世紀の三国時代から冊封体制下にあり、これを琉球王国も継承したのです。
琉球王国は明から貿易面でかなり優遇されていました。通常貿易は3年に1度などの回数制限や訪れる港も決まっていましたが、琉球王国は毎年1、2回訪問でき、決められた港以外でも入港可能にするなど、他国よりもフレキシブルに貿易できたのです。その理由は、明が取り締まりに苦慮していた倭寇(海賊および密貿易集団)が関係していました。明は倭寇の貿易相手として琉球王国を位置づけ、倭寇の略奪による被害などを減らそうと考えたのです。さらに、倭寇の情報収集先や、日本との交渉先としても琉球王国を利用する考えでした。
琉球王国はこうした背景をもとに、東シナ海と南シナ海を結ぶ中継貿易の拠点として発展していきます。中継貿易というのは、明で得た品物を日本に再輸出するといった、いわゆる転売です。琉球では胡椒、硫黄や馬、刀剣などさまざまな品物が往来することになりました。
ところが明が徐々に朝貢貿易を縮小し、ポルトガルを始めとした西欧諸国が東南アジアに進出してきたことで、16世紀に入ると琉球王国の中継貿易には陰りが見え始めます。それにより、これまで貿易相手国として付き合いを続けてきた日本との関係にも、従属的なものに変化していくことになります。
琉球王国と島津氏の関係は?
島津氏が琉球王国と関わり始めたのは諸説ありますが14世紀後半頃からと言われており、琉球王国経由で朝鮮と交易をしたり、明に朝貢を試みたりしています。さらに文明3年(1471年)には室町幕府の許可を得て、島津氏が発行する「琉球渡海朱印状」を持たない貿易船は渡航できないというルールを作り、琉球王国に対しても朱印状を持たない船の入港を拒否するよう求めています。島津氏は日本/琉球間の貿易独占を狙ったのです。
そんな島津氏ですが、戦国時代後期には北九州以外を手中に収め、九州統一を目指して大友氏と対立。ところがこれに豊臣秀吉が待ったをかけ、天正14年(1586年)7月から翌天正15年(1587年)4月までの「九州平定(九州征伐、島津征伐とも)」が起こります。この結果島津氏は秀吉に敗退し、秀吉の傘下に入ることになりました。
その後、秀吉は琉球王国にも服属を求めて上洛するよう要求します。天正16年(1588年)に島津義弘は、琉球王国に書簡を送り、秀吉関白就任を祝う使節を派遣するよう要求。これに対し、翌年琉球王国の尚寧王は使者を出します。琉球王国としては服属をはっきり認めたわけではありませんが、秀吉は「琉球が服属した」と一方的に決めつけました。
琉球王国と「朝鮮侵略」
その後、豊臣秀吉は朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際、軍役負担を薩摩と属国と位置付ける琉球王国に強います。天正19年(1591年)、島津氏は秀吉の命として、琉球王国に対し、「薩摩と琉球王国合わせて1万5000人の軍役を求められているが、琉球王国は戦闘経験がないため軍勢の派遣は求めない」と説明。その代わりに兵糧舞7000人・10か月分の供出を命じます。
これに対し、琉球王国は、ちょうど明からの冊封使を迎える時期だったので経済的に余裕がありません。さらに、日本側への肩入れが明にばれた場合、明との関係が悪化する可能性も十分にあります。重要な貿易国である明との関係は維持したいところ。このため琉球王国は軍役の半分のみを負担するにとどまります。残り半分は薩摩氏が負担したため、琉球王国は薩摩氏に借りを作ることになってしまいました。
なお、この際島津氏は朝鮮侵略を他国に漏らさないよう口止めしていますが、琉球王国は明に対し使者を送って秀吉の動向を報告。そして文禄2年(1593年)に文禄の役が終了した後は明よりの姿勢を強めていきます。
その後、慶長2年(1597年)から始まった「慶長の役」は翌3年(1598年)、秀吉の死で終わりを告げます。秀吉の死後は五大老の筆頭にのし上がった徳川家康が力を増し、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いを経て、徳川・江戸幕府が日本を支配していくことになるのです。
江戸幕府が琉球王国に求めた「日明貿易の仲介」
慶長8年(1603年)に江戸幕府を立ち上げた徳川家康は、明との貿易再開をめざします。交易復活の鍵として考えたのが明と朝貢関係にある琉球王国でした。実は慶長7年(1602年)、東北の伊達政宗領内に琉球船が漂着しており、その際家康は漂着者たちを丁重に扱い、島津氏に付き添いを命じています。琉球王国に恩を売ることで、琉球王国が明との仲介を助けてくれるのではと期待したのです。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。