川中島の戦い(2/2)宿命のライバル、武田信玄と上杉謙信

川中島の戦い

川中島の戦い

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事件簿
事件名
川中島の戦い(1553年〜1564年)
場所
長野県長野市小島田町1384-1
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謙信は8月に越後を立ち、8月15日に善光寺に到着。善光寺に5000の兵を残して1万3000の兵とともに犀川と千曲川を渡り、16日に海津城の向かいにある見晴らしの良い妻女山に布陣しました。武田氏の勢力範囲に危険を冒して侵入して布陣しており、武田軍に挟撃されそうな位置取りで部下からも不安の声が上がりますが、謙信は動きません。「何が何でも信玄と決着するぞ」という意気込みを感じますね。一説には信玄をおびき出した後に越後から援軍を呼び、善光寺を先陣に戦う計画もあったようです。

海津城から知らせを受けた信玄は16日に躑躅ヶ崎館を出発、24日に1万8000人の兵とともに、雨宮渡を拠点に本陣を構えます。よく「茶臼山に陣取った」という記述を見ますが、『甲陽軍鑑』では茶臼山は出てきません。しばらく様子を見ていた信玄でしたが、謙信が動かないことを受け、29日には海津城に入りました。この時点で武田軍は2万人までふくれあがりました。

その後もしばらく膠着状態が続くなか、先に動きを見せたのは信玄でした。9月9日に軍議を開き、山本勘助と馬場信房が相談の元、策を提案します。兵を本体8000と別動隊1万2000の2手に分けて、本隊は妻女山ふもとの八幡原に布陣。別動隊が妻女山に夜襲を仕掛けて杉軍を八幡原に追いやり、待ち伏せしていた本隊と迎撃する作戦です。この作戦は、啄木鳥(きつつき)がくちばしで木を叩き、びっくりして飛び出た虫を食べるとされたことにちなみ、後世に「啄木鳥戦法」と名付けられています。

せっかくの2万という大軍を2手に分けるのは悪手にも見えますが、実はこれ、謙信が妻女山を撤退することを前提にした上での作戦でした。『甲陽軍鑑』では山本勘助が「別動隊が合戦を始めれば、越後勢は勝っても負けても川を越えて引き上げる」と発言しています。

ところが、謙信は海津城からあがる炊事の煙の量が増えていることを見て、武田軍の作戦を察知します。さすがは軍神、すぐさま対抗策を考えて動きます。武田軍の裏をかき、夜の間に山を下りて千曲川を越えて八幡原に布陣したのです。当時の川中島には濃霧が発生していて信玄は気が付きません。

9月10日の早朝、霧が晴れたときには武田軍の本体の目の前には謙信の1万3000人の軍。信玄はさぞかしびっくりしたと思います。上杉軍は、乱戦に持ち込む「車懸り」の策で武田軍に襲い掛かります。なお、車懸りというと、車がぐるぐる回るように次々と兵士を繰り出して戦うイメージですが、この当時は異なったようです。一方の武田軍は鶴翼の陣で応戦しますが、上杉軍のすさまじい勢いに劣勢となります。

ところが、妻女山を攻めていた武田軍の別動隊が八幡原に到着し、謙信の背後から攻めかかると、形勢は逆転。挟み撃ちされた謙信は、犀川を渡って善光寺へと逃れました。信玄も追撃を止めて八幡原に兵を引きます。謙信は善光寺に配していた兵と共に越後に帰りました。

さて、『甲陽軍鑑』では謙信が馬で本陣に切り込んで信玄に三太刀切りこみ、それを信玄が軍配団扇で受け止めたという「一騎打ち」の描写が見られます。大変ドラマチックな見せ場ですが、現在では江戸時代の創作であるという説が有力です。とはいえ、それほど武田軍が追い詰められたということでしょう。事実、この戦で信玄の弟の武田信繁や山本勘助など、重臣の武将たちが討ち死にしています。死傷者数は両軍合わせて8000人にも及んだそうです。

第4次川中島の戦いで多くの家臣を失った信玄でしたが、海津城は守り切ったことで北信濃の支配力は強まりました。謙信は越後を守り、信玄に大打撃を与えることができました。結局今回もどちらが勝ったかは曖昧なままですが、両武将ともに「自分が勝った!」とアピールしたようです。ちなみに『甲陽軍鑑』では前半は謙信、後半は謙信が勝ったとしています。

信玄・氏康に翻弄される謙信

北信濃での争いは第4次川中島の戦いである意味ひと段落しました。次の舞台は越後の隣、謙信が治める上野国に移ります。信玄は永禄4年(1561年)11月に西上野に侵攻。信玄と同盟を結んだ北条氏康も武蔵国などで謙信と戦います。信玄と戦うと関東で氏康が、氏康と戦うと信濃で信玄が出てくるというまるでもぐらたたきのような構図に謙信は翻弄されます。

さらに、信玄は飛騨国にも支配の手を伸ばします。飛騨が内乱状態にあるなか、両者は異なる武将を支援して対立したのです。信玄が飛騨を奪えば、越後を脅かすことになるかもしれない。謙信は5度目の川中島出陣を決心します。

第5次川中島の戦い:にらみ合いで終了

最後の第5次川中島の戦いは永禄7年(1564年)に起こりました。謙信は信玄のやり口に対し相当腹を立てていたようで、春日山城の越後彌彦神社に「武田晴信悪行之事」と題する願文を納めて打倒信玄を誓います。信玄をかなり罵っている願文なので、その怒りがよくわかりますね……。

謙信は8月に川中島に出陣。信玄をおびき出そうとしますが、対する信玄は決戦を避けて、長野盆地南端にある勢力範囲の塩崎城に布陣して動きません。2ヶ月にわたって対陣したもののにらみ合いだけで終わり、10月には両軍ともに撤退して終了しました。

川中島の戦いのその後

第4次川中島の戦い以降、信玄と謙信は第5次川中島の戦いで対陣することはあったものの、直接衝突することはありませんでした。両者は越中で別々の武将を支援して対立しますが、謙信は関東攻略に、信玄は今川・北条との三国同盟を破棄して駿河など東海道を攻めます。

川中島は武田氏の支配下にはいりましたが、武田氏が織田信長に滅ぼされた後は森長可が治めています。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変でこの世を去った後は、北条・上杉・徳川氏が甲斐国・信濃国・上野国の覇権を争う「天正壬午の乱」が発生。乱後の信濃全土は徳川家が治めることになったのでした。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04