西南戦争(2/2)士族最後の戦い、西郷隆盛VS政府

西南戦争

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
西南戦争(1877年)
場所
熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県
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熊本城

熊本城

人吉城

人吉城

最新鋭の兵器を備えて攻める官軍に対し、薩摩軍は豪を用意しつつ旧式の装備で奮闘。白兵戦では薩摩示現流が官軍の兵士を次々と倒していきました。官軍は狙撃で対応しますが、坂はなかなか超えられません。1日32万発もの弾丸が降り注いだと伝わっており、激戦の様子は民謡「田原坂」で「雨は降る降るじんばは濡れる越すに越されぬ田原坂」として歌われています。

奮闘を続ける薩摩軍ですが、相次ぐ雨で旧式の銃が上手く働かず、次第に消耗していきます。さらに、官軍は白兵戦対策として元士族の剣術に秀でた警察官からなる「警視庁抜刀隊」を組織。構成員は明治六年政変の際に大久保利通についた鹿児島県士族たちで、薩摩軍と互角に戦える腕の持ち主たちでした。抜刀隊の活躍もあり官軍は調子を取り戻し、薩摩軍に猛攻をかけます。そして3月20日、朝霧に紛れて薩摩軍に総攻撃を実施。不意を突かれた薩摩軍を下し、ついに田原坂の突破に成功します。

両軍合わせて1万3000人以上の死者が出た田原坂の戦いですが、西南戦争のターニングポイントとなり、その後は官軍有利で戦が進んでいくことになります。

西南戦争③城山で西郷隆盛死去

田原坂を突破された薩摩軍は次第に後退。4月14日には官軍の一部が熊本城に入ったことで、西郷隆盛は熊本城の包囲を解いて鹿児島に撤退します。なお、この熊本城の戦いについて、隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と話しています。

その後、薩摩軍は熊本県南部の人吉地方を拠点にして官軍と戦いますが、官軍の最新鋭の装備に負け続けます。そして8月15日、宮崎県北部の延岡にある和田峠の戦いで、薩摩軍3500が山縣有朋の指揮する官軍約5万と戦い敗退。そして4月16日、西郷隆盛は軍の解散を発表。「降伏するものは降伏し、戦で死ぬ覚悟のあるものは残れ」と話したことで、降伏するものが相次ぎ、残すは1000名のみとなりました。

残った士気の高い精鋭たちを連れて西郷隆盛は鹿児島に向けて出発します。自らの故郷で散ろうと考えたのか、9月1日に鹿児島入りし、鹿児島市中央部の城山に籠城しました。当初は住民たちの協力もあり、薩摩軍は鹿児島市街をほぼ制圧に成功しますが、官軍の巻き返しにあい、9月6日に官軍に城山を包囲されてしまいます。この時点で薩摩軍は350名あまりまで減少していました。

薩摩軍はしばらく持ちこたえますが焼け石に水。9月19日には山野田一輔と河野主一郎が西郷隆盛の救命を訴えるため、隆盛には「挙兵の意を説くため」と嘘をついて軍使として隆盛の縁戚である川村純義のもとに出向き捕らえられました。これを知った隆盛は22日に「城山決死の檄」を告知。2名の派遣を「味方の決死の覚悟を敵陣に伝え」るものであるとし、「大義名分を貫徹して斃れるつもり」と主張。「この城を枕にして決戦すべき。一層奮起して後世に恥辱を残さず覚悟して戦うように」と薩摩軍を奮起させ、討ち死にの覚悟を表しました。なお、山縣有朋からは隆盛に対し、総攻撃前に自決をするよう求める書状が届いていますが、隆盛は無視しています。

そして9月24日の早朝、官軍の最後の総攻撃が始まります。軍の幹部たちが次々と倒れる中、西郷隆盛も銃弾で負傷。最後まで隆盛についてきた別府晋介に「晋どん、もう、ここでよかろう」と話し切腹の準備を整えます。晋介は「ごめんなったもんし」と叫んで隆盛を介錯。こうして隆盛は51歳でその生涯を終えました。

晋介は西郷隆盛の介錯後、その場で切腹。残る桐野利秋をはじめとした幹部たちは戦を継続し、戦死または自刃しました。こうして西南戦争は終結し、挙兵の意を法廷で主張すべきと主張していた別府九郎など一部を除き、薩摩軍はほぼ全滅したのでした。

西郷隆盛の遺体と首は丁寧に葬られましたが、賊軍の将として官位をとりあげられたままでした。しかし、黒田清隆をはじめ隆盛と敵対していた政府の首脳陣にはその人柄を惜しむものが多く、明治天皇も「惜しい人物を亡くした」と語っています。戦後、隆盛の名誉回復のための運動がなされ、明治22年(1889年)に隆盛は正三位に序されています。

西南戦争後の士族たちと自由民権運動

西南戦争の終結は不平士族たちに大きな影響を与えました。つまり、「政府に武力で反抗するのは不可能」との認識を広めたのです。西南戦争を機会に、士族たちは言論の力で政府と戦うことを決意します。

ここでスポットライトを当てたいのが、西郷隆盛と同時期に下野した板垣退助です。庶民が自由に発言し、政治に参加できる権利を求める自由民権運動を展開し、言論で政府に戦いを挑んでいました。退助は明治7年(1874年)に民選の議会開設を要望する建白書を出しており、その後自由民権思想は全国に広がっていくことになります。この自由民権運動に不平士族たちも賛同していくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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