九州平定(2/2)秀吉が島津を下して九州を支配下に

九州平定

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事件簿
事件名
九州平定(1586年〜1587年)
場所
鹿児島県・宮崎県・福岡県・大分県・長崎県
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岡城

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一方、秀吉率いる約10万の肥後方面軍は3月29日に小倉城(福岡県北九州市)に到着し、4月1日には秋月種実の支城・岩石城(福岡県田川郡)を激戦の末落としました。種実は当時益富城(福岡県嘉麻市)にいましたが、城を破却して古処山城(福岡県朝倉市)に立てこもりました。

ところが秀吉は一夜のうちに益富城を修繕。いわゆる「一夜城」を作ったことで秋月種実は戦意を失い、4月3日に剃髪の上秀吉に降伏しました。なお、この一夜城は秀吉のトリック。白い紙を貼って白壁に、民家の戸板に墨を塗って腰板のように見せかけたそうで、遠くから眺めていた秋月種実はそうとは知らず驚いたというわけです。

開戦からわずか3日で秋月種実が秀吉に下ったことは、周囲の豪族たちを驚かせました。その後、秀吉は4月10日に筑後に、4月16日には隈本(熊本県熊本市)、19日には八代(熊本県八代市)まで到達。秀吉の力を見せつけられた地元の豪族たちは次々と秀吉に帰属していきました。例えば島原方面では有馬晴信が豊臣軍に味方。このほか、家臣が以前から秀吉と内通していた龍造寺氏も豊臣軍に加わっています。

九州平定④「根白坂の戦い」で豊臣軍が勝利

一方、豊臣秀長率いる約8万の日向方面軍は3月29日に日向松尾城(宮崎県延岡市松山町)を落城。4月6日には島津氏にとって要衝の高城(宮崎県児湯郡木城町)を包囲し、兵糧攻めを開始します。さらに島津軍の援軍を見据え、迎撃のために近くの根白坂に砦を立てました。

島津軍は徳川軍の狙い通り、山田有信ら約1500人が立てこもる高城に援軍を送り、拠点を取り戻そうとします。4月17日、島津義久・義弘・家久は3万5000の軍勢と共に高城に向かって出発。夜には豊臣軍が根白坂に築いた砦を急襲しました。砦には宮部継潤をはじめとした1万の兵が詰めており、空堀や板塀などを使って砦を堅守。島津軍はなかなか砦を突破できず、両者膠着状態に陥りました。

そこに秀長のいる本隊から藤堂高虎率いる500名と宇喜多秀家の部下が救援に駆けつけて島津軍を翻弄します。加えて小早川隆景、黒田官兵衛らの軍が迎撃を実施。総勢8万(※諸説あり)の豊臣軍に健闘する島津軍でしたが、大将格の島津忠隣をはじめ、ほぼ全員が討ち死し、大敗という結果に。島津義久・義弘は日向国の都於郡城に、家久は佐土原城(宮城県佐土原町)になんとか退却しています。

その後、豊臣軍は都於郡城を攻略し、岩牟礼城(宮崎県小林市)まで侵攻。島津義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)まで逃げ延び籠城しました。

そして4月21日、島津義久は豊臣秀長に家老を人質として差し出し、和睦を申し入れました。26日には高城を差し出しており、4月29日には城を懸命に守っていた山田有信も城を明け渡しています。

九州平定⑤薩摩での最後の戦い

敗戦色が濃厚になってきた島津軍と豊臣軍の最後の戦いが「薩摩の戦い」です。秀吉率いる肥後方面軍は素早く進軍し、4月27日には薩摩国内に侵入しています。秀吉の勢いに恐れをなし、出水城(鹿児島県出水市)の島津忠辰や宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の島津忠長などが戦わずして降伏。さらに豊臣軍の小西行長、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明などは海路で進み、4月25日には川内(鹿児島県薩摩川内市)に入っていました。豊臣軍の進軍速度は島津軍の想定以上のものでした。実は、秀吉は九州平定の際に本願寺顕如を同行させており、地元の一向宗門徒たちの協力があって早く進軍できたのです。

そして4月28日、小西行長たちは平佐城(鹿児島県薩摩川内市)を攻めます。平佐城主・桂忠詮らの強硬な抵抗により双方に被害が出ましたが、夕方には桂忠詮のもとに島津義久から降伏するよう命じる書状が届けられ、翌29日、忠詮は脇坂安治の陣に降伏を伝えています。

5月3日、豊臣秀吉は平佐城付近の泰平寺に本陣を移しており、8日には本陣に雪窓院(鹿児島県日置市)で出家した島津義久が訪れて正式に降伏の意を示しています。出家した義久を秀吉は許し、処刑することなく放免しました。なお、この時点ではまだ島津義弘や島津歳久などが豊臣軍に抵抗し続けていましたが、5月22日、義弘は義久の説得を受けて息子を人質として差し出して降伏しました。

九州平定⑥講和後の分国令とバテレン追放令

こうして半年以上続いた九州平定は終了しました。豊臣秀吉は軍を率いて筑前筥崎(福岡県福岡市東区箱崎)まで戻り、筥崎八幡宮で九州の領土配分を決める「九州国分令」を発します。国分の結果、島津氏は大友氏との戦で新たに獲得した地域はほとんど没収されましたが、薩摩と大隅、日向の諸県郡が安堵されるというまずまずの結果を得ました。

なお、大隅については嫡男を失った長曾我部元親に対して与えられる予定でしたが、元親は固辞。日向国については大友宗麟が得る計画もありましたが、宗麟は固辞し、その後5月23日に死亡。このため、息子の大友義統が豊後一国と豊前の宇佐半郡を安堵されています。

豊臣家に味方をした諸大名については、佐々成政が肥後国、小早川隆景が筑前・筑後肥前1郡の約37万石、黒田官兵衛が豊前6郡の約12万石、森吉成が豊前企救郡・田川郡の約6万石、大友義統の家臣、立花宗茂が筑後柳川の13万2000石、毛利勝信が豊前小倉約6万石をそれぞれ与えられました。

秀吉が箱崎で出したもう一つの法令。それがキリスト教を規制する「バテレン追放令」です。秀吉は九州平定後、肥前長崎港(長崎県長崎市)を視察し、キリスト教勢力の進出状況を見て危機感を募らせます。九州はキリスト教徒が勢力を拡大しており、キリシタン大名たちが長崎などの土地をイエズス会に寄進していました。加えて、キリスト教徒が日本人を奴隷として海外に輸出していたこともあり、ポルトガルやスペインなどのキリスト教国の侵略を恐れた秀吉は、天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発令。キリスト教徒の信仰は容認するものの、宣教師たちの布教を禁じて国外退去を命じています。

ただし、南蛮貿易は許容したため、南蛮貿易商人でもあった宣教師たちは国内に居直ります。バテレン追放令はそこまで強いものではありませんでしたが、江戸時代のキリスト教弾圧に続く芽がこのとき芽生えたのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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