長篠の戦い(2/2)武田勝頼が大敗を喫した「長篠の戦い」を改めて振り返る

長篠の戦い

長篠の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
長篠の戦い(1575年)
場所
愛知県新城市長篠字市場22-1
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長篠城

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さらに、信長は奇襲もおこないます。5月20日の深夜、酒井忠次率いる約4000人の別動隊がひそかに出陣し、武田軍本体を迂回して、長篠城を包囲する武田軍を攻撃。包囲の要だった鳶ヶ巣山砦への奇襲は大成功でした。これにより、武田方は勝頼の叔父の河窪信実をはじめとした名将が死亡。勝頼は退路を断たれてしまいます。

設楽原での決戦~「鉄砲の3段撃ち」はなかった?~

5月21日、武田軍は設楽原で織田・徳川軍と戦います。早朝から約8時間続いたという激しい戦は織田・徳川軍の勝利に終わり、武田軍は鳶ヶ巣山砦とあわせて1万人以上の死者を出したとされています。特に山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟など名だたる武将が討ち死したことは武田家にとって大きな痛手となりました。なかでも馬場信春は勝頼の撤退で殿を務め、撤退を見届けると見事な討ち死にを遂げたと伝えられています。甚大な被害を受けながらも勝頼は何とか逃げのび。高遠城に後退しました。

設楽原の戦いのイメージと言えば、信長の鉄砲隊が戦国最強と言われた武田家の騎馬隊を打ち破るもの。馬防柵で馬の足を止め、3000挺の火縄銃を投入し、兵士を3組に分けて弾を込める、構える、撃つの3つの動作をそれぞれの組に担当させ、連射する「3段撃ち」で武田軍を壊滅状態に陥った、というのが昔の教科書の説明ですし、小説や映画でもとりあげられています。

しかし、最近の研究では鉄砲の3段撃ちはなかった、3000挺も火縄銃は導入されていなかった、という説が有力です。そもそも、長篠の戦いには一次資料があまりなく、正確なところはよくわかっていないのが実情です。長篠の戦いについて書かれた資料の1つが、信長の家臣、太田牛一による『信長公記』ですが、武田軍を待ち伏せして火縄銃を交互に発砲したと書かれているものの、3段撃ちについては記述がありません。鉄砲隊についても1000人程度となっています。また、設楽原での発掘調査では鉄砲の弾はほとんど出てきていません。

研究者によれば、長篠の戦いは雨が多い時期におこなわれており、5月20日には三河で大雨が降っています。21日の設楽原はぬかるみの泥だらけ。兵士たちも泥まみれの中戦ったのではないかと推察されます。点火が必要な火縄銃頼りでは負けてしまいますよね。そもそも8時間も戦い続けているのですから、火縄銃の弾などあっという間になくなります。鉄砲隊は活躍したかもしれませんが、戦の勝敗を分ける大きな要因ではなかったようです。

なぜ武田軍は敗退したのか?

最近の研究では、武田軍の敗因については

  1. 勝頼が諏訪氏の跡継ぎだったこともあり、古参の家臣をまとめきれなかった
  2. 織田・徳川軍の奇襲攻撃で長篠城に戻ることができず、設楽原に突撃せざるを得なかった
  3. 織田・徳川軍が設楽原で土塁や馬防柵を設置するなど、戦に備え入念な準備をしていた

ことなどがあげられています。個人的に注目したいのは3つ目の設楽原での事前準備。武田家の特性を踏まえた上での入念な準備が戦いの勝ち負けを分ける結果になったように思います。さらに、泥やぬかるみで馬の機動力が落ち、武田騎馬隊の力が半減したことも敗因の1つだったかもしれません。

ちなみに、武田の騎馬隊については実は存在していなかった、あってもそこまで大規模なものはなかった、という説があります。研究が進むにつれ、もっと新しい説が出てくるかもしれませんね。

長篠の戦いから武田家の滅亡まで

長篠の戦いで大敗を喫し、主だった武将を失ってしまった勝頼。武田家をなんとか再編しようしますが、織田・徳川軍はそのすきを逃さず東美濃や遠江を攻め、勝頼から城を次々と取り返します。勝頼は天正5年(1577年)に北条氏政の妹を後室に迎え、北条家との甲相同盟を強化して立ち向かおうとしますが、翌年に上杉謙信の急死で発生した家督争い「御館の乱」に介入した際の立ち回りで失敗。北条家との関係が悪化し同盟は破たんしてしまいます。そして北条家はなんと信長や家康と組み、武田家と敵対することになります。

勝頼は織田・徳川・北条軍と戦いを続け、一時優勢に立ちました。しかし、天正9年(1581年)には高天神城が徳川軍により落城し、穴山梅雪など有力な武将が敵方に寝返るなどしたことで次第に力を弱めていきます。天正10年(1582年)には織田・徳川・北条軍が武田家を本格的に攻めはじめ、頼みの家臣にも次々と裏切られます。そして3月11日、甲斐の天目山の戦いで織田軍に敗れ、勝頼は自害。武田氏は滅亡しました。

長篠の戦い以降、一度は盛り返したものの結局織田・徳川・北条軍に敗れた勝頼。長篠城をあきらめ撤退していれば、違った道が開けていたかもしれませんね。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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